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2023年1月4日水曜日

新年(令和5年)のご挨拶

 

令和5年が明けました。

本年もよろしくお願い致します。


今年はうさぎ年に因んで三輪神社におまいりしました。

境内にはかわいい“なでうさぎ”。御朱印も、かわいいうさぎさんです。

なぜ、うさぎさん?
三輪神社のご祭神である大物主大神(おおものぬしのおおかみ)は大国主神(おおくにぬし)と同一だそうで、大国主神といえば、「因幡の白兎」を助けたやさしい神様。ということで、うさぎは神様のつかいだそうです。

三輪神社の境内にあった「御由緒」によると、元亀年間(1570年)に、奈良桜井三輪町から、現在の矢場町交差点辺りにあった小林城に移った城主、牧若狭守長清が、生れ故郷の三輪山に鎮まります大物主大神を祀ったと伝わっているそうです。このように三輪山といえば奈良県ですし、古事記に活玉依姫(いくたまよりひめ)との恋物語?がでてくる大物主大神は大和民族に神様のようにみえるのですが、出雲の国造りの神様である大国主神と一緒なんですね…(興味深いので、機会があったら、後日、調べてみたいと思います)。

ところで、小林城は、『愛知の城』(山田柾之著)によると、天文十七年(1548年)、織田信秀が末森城へ移ったとき、尾張守護であった斯波氏の一族である牧長義(後の義清)が築いたもので、長義とその子である長清の二代が23年間居城したとあります。三輪神社の「御由緒」にもでてくる牧長清は、織田信長の妹(お市の方の姉)を妻(おとくの方、お市の方と同様に、美人の誉れが高く、「小林殿」と呼ばれた。)にしたそうです。小林城は、牧長清の死後、廃城となりました(現在の清浄寺(矢場地蔵)の辺りらしいです)。

名古屋のお雑煮といえばもち菜…ということで、今年は、もち菜を使ってみました。


2017年2月13日月曜日

節税養子に関する最判平成29年1月31日The Supreme Court’s decision dated January 31, 2017 regarding ‘Tax-avoidance adoption”、長篠城址・田原城跡 The sites of "Nagashino Castle" and “Tahara Castle”


1.「節税養子」に関する最判平成29年1月31日
The Supreme Court’s decision dated January 31, 2017 regarding ‘Tax-avoidance adoption”

(1) 養子制度について、日本では、欧米と比較して、子の福祉のために使われることは少なく、多様な目的に使われているといわれます(内田『民法Ⅳ』)。そのうちの一つが“節税養子”(“相続税養子”)でしょう。
 特に、いわゆる“孫養子”は、直系卑属を養子とするため家裁の許可が不要であり(民法798条但書)、また、昭和63年度税制改正(*)等もありましたが、なお、相続税の節税効果が期待され、富裕層の間では孫養子が利用されることも、そう珍しいことではないように思います。

*昭和60年前後から、相続税の節税目的で、近親者を養子とする例が頻発したため、昭和63年度に次のような改正がありました。

①実子相続人がいる場合には、被相続人の養子のうち一人のみを法定相続人の数に含める(相続税法15条2項1号・3項)

②実子相続人がいない場合には、被相続人の養子のうち二人までのみを法定相続人の数に含める(同条項2号)

③①および②のいずれの場合でも、「相続税の負担を不当に減少させる結果となると認められる場合においては」、税務署長は、養子の数を法定相続人の数に含めないで計算できる(相続税法63条)

**相続人が被相続人の一親等の血族(代襲相続人となった直系卑属を含む)および配偶者以外の者である場合、相続税額は20%加算されます(相続税法18条1項)が、平成15年度改正により、養子となった孫もこれに含まれます(同条2項)。
 
***なお、相続税の基礎控除額等に係る平成25年度改正については、以前、事務所通信でとりあげたことがありますので、こちら(↓)をご覧ください。
http://www.hisaya-ave.com/tsushin3p7.html

  http://www.hisaya-ave.com/tsushin3p8.html 

(2) 民法は、「人違いその他の事由によって当事者間に縁組をする意思がないとき」は、養子縁組を無効としている(民法802条1号)ところ、節税対策の孫養子について、「縁組をする意思を欠く」ことから養子縁組は「無効である」と主張してその確認を求めた訴訟の最高裁の判決(最判平成29年1月31日)がでました。
判決文はこちら(↓)
http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/480/086480_hanrei.pdf 

(3)  最高裁の判決によると、原審である東京高裁が認定した事実は、次のとおり。
 亡くなったおじいさんAは、自宅を訪れた税理士等から、長男Bとその妻Cとの間に平成23年に出生した孫であるYを養子とすると、基礎控除額が増えることなどによる節税効果がある旨の説明をうけて、平成24年に養子縁組届を提出しました(届には、養子となるYは未成年のためその親権者である両親BC、養親となるA、および、Aの弟夫婦が証人として、署名押印)。この養子縁組について、Aの長女X1、次女X2が無効を主張しました。
 原審である東京高裁は、「専ら相続税の節税のためになされたもの」としたうえで、「縁組をする意思がないとき」にあたるとし、X1、X2の無効確認請求を認容しました。
 これに対し、最高裁は、「相続税の節税の動機と縁組をする意思とは、併存し得るものである。」とし、「専ら相続税の節税のために養子縁組をする場合であっても、直ちに当該養子縁組について民法
802条1号にいう『当事者間に縁組をする意思がないとき』にあたるとすることはできない。」と判示しました。
 その上で、本件養子縁組について、「縁組をする意思がないことをうかがわせる事情はなく、『当事者間に縁組をする意思がないとき』にあたるとすることはできない」との結論をくだしています(X1、X2の無効確認請求を認容した原審(東京高裁)の判決を破棄)。
 既に述べたように、節税対策の孫養子は、そう珍しい話ではないと思われるので、最高裁の結論に、胸をなでおろした方も多いのでは…。
 ただし、「専ら相続税の節税のために養子縁組をする場合」でも、「直ちに」縁組をする意思がないといえないとしているだけで、「縁組をする意思がないことをうかがわせる事情」があれば結論が違ってくる可能性は残しています。また、前述のように、相続税法63条は、「第15条第2項各号に掲げる場合において当該各号に定める養子の数を同項の相続人の数に算入することが、相続税の負担を不当に減少させる結果となると認められる場合においては、税務署長は、相続税についての更正又は決定に際し、税務署長の認めるところにより、当該養子の数を当該相続人の数に算入しないで相続税の課税価格(…)及び相続税額を計算することができる」と規定しているのには、留意が必要です。
 
In Japan, it is not rare for a person of wealth to adopt one’s grandchild in order to reduce inheritance tax, because under the Inheritance Tax Act, the basic deduction from the taxable assets increases as the number of legal heirs. The Supreme Court on January 31, 2017 decided that the motivation for Tax Avoidance could be compatible with the intention of the adoption, and will not automatically annul the adoption.

2.長篠城址、田原城跡
   The sites of "Nagashino Castle" and “Tahara Castle”

(1) 先日、桶狭間の戦いに関連する史跡巡りについて、このブログでふれました。本日は、ちょっと前に訪れた長篠の合戦で有名な長篠城址等の散策について、ご紹介を…。

(2) 長篠城址は、新城市にあり、本丸の土塁や堀が残っているほか、史跡保存館があります。
 天正
3年(1575年)におきた長篠の合戦は、武田の騎馬隊に対し、鉄砲隊を擁する信長軍が馬防柵を用いたことで夙に有名であり、歴史の教科書にもその場面を描いた合戦図がのっていたように思います。
 このように長篠の戦いというと野戦が真っ先に思い浮かびますが、史跡保存館をたずねると、長篠城を武田勝頼軍が包囲したことによる攻防戦からはじまった等の経緯が史跡と共に紹介されています。
 長篠の合戦に先立つ1573年、京都を目指した武田信玄は病気のため甲州へ引き返す帰途に死去、その死は当初伏せられていましたが、すぐに信玄死すとのうわさが広まり、同年、徳川家康が長篠城を占領しました。ちなみに、長篠城は、元々、1508年に今川義元の将、菅沼元成が築いたそうで、1571年より武田氏に属していたようです。
 武田信玄は「3年間は戦をやめて国力充実につとめよ。」と言い残しましたが、武田勝頼はこのいいつけを守らず、1575年、1万5千の兵をもって長篠城を包囲。長篠城主となっていた徳川家康の家臣、奥平貞昌は、500の兵と共に籠城し、織田信長・徳川家康の連合軍が到着するまでの約10日間、長篠城を守りきったそうです。
 信長・家康の連合軍は到着すると設楽原に陣を築いたため、武田軍は長篠城の囲みをといて設楽原に進出、壮絶な戦いとなります。武田軍はこの野戦(設楽原決戦)で大敗、重臣を含め約1万もの死傷者をだし、敗走。
 長篠の合戦時、織田信長は42歳、羽柴秀吉は39歳、徳川家康は34歳、武田勝頼は30歳だったといいます。
 織田信長は、長篠の戦いの後、さらに天下人への道を歩んでいきます。

 他方、武田氏の勢力は弱まり、1582年3月に滅亡。昨年の大河ドラマ「真田丸」では武田氏の凋落や勝頼の悲哀がよく描かれていて、涙を誘いました。
 ところが、奇しくも同年6月、織田信長も本能寺の変にて天下取りの志半ば、この世を去ります。
 このような歴史の舞台となった長篠城は、1576年、廃城となりました。
 かつて、歴史の授業では、桶狭間と長篠の順番・内容を記憶するのに苦労した覚えがありますが、こうやって、実際に訪ねてみると、実感をもって記憶できます(笑)。
   
長篠城址
a stone stela

   
長篠城の本丸跡
a site of Honmaru


長篠城の内堀跡
a moat


(3) 長篠城址を訪れた後、渥美半島まで足をのばし、いちご狩りを楽しみました。また、田原城跡にもまいりました。
 田原城は、渥美半島のほぼ中央に位置し、1480年頃、戸田宗光により築城されました(当時、三河の国の一色氏の勢力下)。
 『愛知の城』(山田柾之著)によれば、戸田氏の最盛期は、宗光の嫡男・憲光の頃。1506年今川氏親とともに吉田城を攻略して次男を配し、二連木城には嫡男を配し、大崎・大津・北裏城によって本城を守り、知多半島南半も従来通り領有し、東三河の雄となっていたとのこと。ところが、1547年、松平広忠が今川氏への人質として嫡男竹千代(後の徳川家康)を送ろうとした際、戸田宗光・堯光親子は、竹千代を途中で奪い、尾張の織田信秀に渡してしまいました。このため、今川氏に攻められた田原城は落ち、戸田氏は没落の非運を辿ります。
 その後、田原城の城主は何度か変わり、明治維新の際には三宅氏の居城だったところ、廃藩置県により、本丸殿舎や二の丸櫓といった建築物は解体されてしまいました。

 田原城は、周辺の海が入込み、堀の一部は自然堀だったそうで、巴文に似ていたことから、別名を「巴江城」(はこうじょう)ともいいます。
 土塁や堀などが残っており(石垣は新しい?)、また、敷地内には、田原市博物館もあります。
 
  
田原市博物館
Tahara Municipal Museum


田原城の復元された
二の丸櫓(右)と桜門(左)
Reconstructed
"Ninomaru-yagura (turret)" (right)
and  "Sakura- mon (gate)" (middle)

  
田原城の桜門
"Sakura-mon (gate)"
of Tahara Castle

 
田原城の曲輪等の名称を示した図
a map of Tahara Castle

I visited the sites of Nagashino Castle and Tahara Castle.
A site of Nagashino Castle is located in Shinshiro city, Aichi Prefecture, and well known as a site of the Battle of Nagashino between the allied forces of Nobunaga Oda and Ieyasu Tokugawa against Katsuyori Takeda in 1575.
A site of Tahara Castle is located in the middle of the Atsumi Peninsula.  It was constructed by Munemitsu Toda around 1480, and remained residence of the Miyake clan until the Meiji Restoration.

2017年1月29日日曜日

千葉家裁松戸支部の控訴審判決(東京高判平成29年1月26日)The Tokyo High Court judgement dated January 26, 2017、桶狭間周辺の史跡巡り The historical spots around Okehazama


1. 離婚裁判において親権が争われた松戸事件の控訴審判決(東京高判平成29年1月26日)
The Tokyo High Court judgement dated January 26, 2017

 昨年、ブログでふれた千葉家裁松戸支部平成
28年3月29日判決の控訴審判決(東京高判平成29年1月26日)がでましたね。
 控訴審の判決文はまだ読んでいませんが、報道によると、第一審判決を変更し、母親を親権者としたようです。
 第一審判決を読むと、父親は、仕事一辺倒の生活を改め、家事や育児の分担を大幅に増やした矢先、夕方長女を保育所に迎えに行ったところ、長女が保育園におらず、帰宅後、母親が長女を連れて出たことに気付いたとのこと。このように母親は父親の了解を得ることなく子を連れだし、その後(第一審判決時には)約5年10か月間、父親との面会交流に合計で6回程度しか応じていませんでした。その上で、第一審は、母親は面会交流を月一回程度の頻度とすることを希望しているのに対し、父親は、年間100日に及ぶ面会交流の計画を提示していることなども総合考慮して、父親を親権者と指定するのが相当であると判示しました。このため、同判決は、「寛容性の原則」を採用したとの評価があります。
 これに対し、控訴審は、「面会は親権者を決める唯一の判断基準ではない。子供の意思や父母との関係など、他の事情よりも重要性が高いとはいえない」、「別居前から主に母が…監護し、安定した生活をしている。」、子も母親と一緒に暮らす意向がある等とした上で、子の利益を最も優先すれば、母親を親権者とするのが相当であると判断したようです。このように、報道に接したところでは、控訴審は、従来通りの「監護の継続性の原則」を採用したものと思われます。
 父親は上告するとのことですが…。
 何が「子の最善の利益」か…は、本当に難しい問題です。


 
    The Tokyo High Court, on January 26, 2017, reversed the judgment of the Matsudo branch of the Chiba District Court dated March 29, 2016.
The Matsudo judgment was regarded as the one in which the friendly parent rule was adopted.  I
n its decision i
t appointed a husband (a left behind father) as a parental authority of a child, considering that he submitted a parenting plan providing 100 days visitation chance to his wife, while she offered once a month visitation chance to him.
However, the Tokyo High Court decided to
appoint the wife as the parental authority of the child, considering that she had been the primary care-giver of the child and the child was spending a stable life.
It has always been a really difficult question “What is the child’s best interest?”

 2.桶狭間周辺の史跡巡り
The historical spots around Okehazama

 
 (1) 桶狭間周辺の史跡をまわってみました。
 まずは、ネットで調べた「酒楽亭 空庵」で腹ごしらえ(笑)。ラーメンにのっている鴨がレアでおいしかったです。


「酒楽亭 空庵」の
鴨はちラーメン
Kamohachi Ramen
(Ramen noodles with canard viande)
at Shurakutei-Kuan

 

(2)  次に、桶狭間古戦場公園(田楽坪)にいってみました。
 桶狭間古戦場公園は、かの桶狭間の戦い(1560年)の中心地で、今川義元公の最期の地だといいます。
 公園内には、「今川義元公馬繋ぎの『ねずの木』」や「駿公墓碣」(すんこうぼけつ)があります。公園内の掲示板によれば、「ねずの木」は、着陣した今川義元公が田楽坪の泉で水を飲むために馬をつないだ木であるとして「ねず塚」として残され、なんと、この木に触れると熱病にかかるとの言い伝えがあるとか…(怖)。また、「墓碣」の方は、「ねず塚」に埋められているのが、昭和28年に偶然発見されたそうで、当時の村人が敗軍の将を弔うためにひっそり埋めて供養したのではないかとのこと。

  ここで、ボランティアガイドさんが声をかけてくださり、「リアル宝探し」を紹介されたので、これに挑戦しつつ、瀬名氏俊陣地跡⇒長福寺⇒桶狭間神明社⇒戦評の松⇒高根山とまわりました。

桶狭間古戦場公園内の
織田信長公と今川義元公の銅像
The statue of Nobunaga Oda (left)
 and Yoshimoto Imagawa (right)
in Okehazama Kosenjo Park
桶狭間古戦場公園内の
桶狭間の戦い案内
A map of a histric battlefiled of Okehazama


長福寺の境内。
池の脇では、今でも泉が湧き出ています。
ボランティアガイドさんは、
「桶狭間」の地名の由来は、
桶がくるくる廻るくらい
泉が勢いよく湧き出ていたからだと
おっしゃっていました。
(地名の
由来は諸説あるようです。)
A pond in Chofukuji Temple
recieves water from a spring.


桶狭間神明社。
桶狭間の戦いでは、
先発の瀬名氏俊が
武運を祈願したといいます。
Okehazama Shinmeisha Shrine
高根山にある有松神社。
高根山は標高54.5メートルで
付近では一番高いといいます。
桶狭間の戦いでは
松井宗信隊が着陣し
善照寺砦、中島砦方面の織田軍の動静を
監視したそうです。
(「桶狭間史跡マップ」より)
Takaneyama (Takane hill)



高根山から名古屋駅方面を望む
The center of the Nagoya city (around Nagoya Station)
looking from the top of Takaneyama
 
 

(3)  桶狭間の戦いにおいて、織田信長は、十倍以上の戦力を有する今川義元を破るため、当時の常識を破り、奇襲をかけて、大将の首をとった…、とてもドラマティックゆえ、数々の小説やドラマで描かれていていますよね。
 当日の信長のスケジュールは…。午前4時頃、清州城で鷲津砦・丸根砦が今川軍の攻撃を受けたとの報告を聞き、「敦盛」を舞ってから出陣、午前8時頃熱田神宮で戦勝を祈願、午前10時頃に善照寺砦に着き、本陣ここにありと見せかけておいて、雷雨の中を今川義元の本陣近くの釜ケ谷に進み、雨がやむや、今川軍に突撃したとのこと(公園内掲示板「信長公記」より。)。

  交通機関が発達した現代からみると、馬での移動にもかかわらず、すごい機動力があるように感じますが、当時としては、どうだったのでしょうか。

         
以前訪れた熱田神宮の信長塀。
桶狭間の戦いでの戦勝を祈願した織田信長が
大勝の御礼として奉納したとされます。
"Nobunaga Bei" in Atsuta Shrine
I visited the other day.
It was donated by Nobunaga Oda
as a token of the gratitude
for his victory of
Okehazama battle.


(4)  その後、イオン大高で買い物をすませ、帰途、大高城跡にも寄ってみました。
 今川義元は、桶狭間の戦いの際、前日に沓掛城に入り、大高城に向かう途中に休息していたところを、織田信長の襲撃をうけたといいます(前掲掲示板)。

  大高城は、東西約160メートル、南北32メートル、四方を二重の堀で巡らしていたといいます(大高城跡掲示板)。今川義元は大高城を重視しており、松平元康(家康)に兵糧輸送を命じこれに成功したことから、「大高の兵糧入れ」でも有名です。桶狭間の戦いの後は、一旦廃城となりましたが、大阪城落城の後、尾張藩の家老、志水忠宗がこの地に一万石を領し、城跡に館を設けて明治維新まで代々続いたそうです(山田柾之『愛知の城』より。)
                  
大高城跡。史跡に指定され
公園になっています。
a site of "Odaka Castle"
        
本丸跡?
左側の高くなっているところには
城山八幡社があります。
a site of "Honmaru"  ?

(5)  桶狭間周辺は、史跡が密集しており、また、古い民家を含め住宅密集地となっているにもかかわらず、結構、小高い丘が、ポツポツとあり、往時の戦いをしのびやすく、とても楽しい時間が過ごせました。

イオン大高の駐車場からの眺め
View from Aeon Mall Odaka

 
大高城跡近辺の街並み
a histrical streetscape
near the site of Odaka Castle

          I visited the historical spots around the Okehazama hill (allias "Dengakutsubo") where Yoshimoto Imagawa, the lord of Suruga, Totoumi, and Mikawa, was killed at the battle of Okehazama in 1560.  The battle was one of the most important events in the history of Japan.  Nobunaga Oda, the lord of Owari defeted Yoshimoto Imagawa whose army had ten times more soldiers than Oda's army.

2016年11月30日水曜日

国際家事調停人研修 Mediator Training in English


1. 11月25日から27日の日程で、大阪で開催された「ハーグ条約セミナー 英語による国際家事調停人研修」(日本仲裁人協会主催)に参加しました。

 日本の家事裁判所や簡易裁判所で行われている調停は、原則、別席調停です。
 これに対し、今回の研修で学んだのは、「対話促進型同席調停」です。

 まず、講師のレビン小林久子先生(元九州大学大学院教授)より、米国でADRの利用が盛んになった経緯や紛争解決の中心理論(交換理論、統合理論、トランスフォーマティブ理論、ナラティブ理論)について解説がありました。米国の調停理論には、心理学の成果のみならず、平和運動や反体制運動が影響を与えているというのは、大変、興味深いと思いました。また、同一のもの(例えば親権)を争った際の紛争解決の困難性(ゼロサム状態)について、その対処方法を理論的に構築しようとするアプローチ自体が(実際にいつも理論通りにいくかは別にして)慧眼だなあと感服しました。

 技法については、傾聴(Active-listening)、パラフレイジング、リフレイミング、サマライジング、ノートの取り方などを習いました。これらを実践すべくロールプレイが3回行われ、運よく(笑)、2回も調停人役がまわってきました。何事も一朝一夕にはまいりませんが、場数を踏むことの大切さを実感しました。

 昨年参加した「ハーグ条約に関する日豪合同あっせん人研修」や今年ロンドンで訪問したリユナイト等で見聞したところによると、オーストラリアやイギリスでは、Mediatorは何十時間ものトレーニングを受けているようです。
 日本では、少なくとも、弁護士が、裁判所の調停官・調停委員になったり、ADRのあっせん人になったりするために、特段のトレーニングプログラムは用意されてはいないことが多いように思います。それは、法曹としての養成プログラム(司法修習)を経た後、紛争解決の場で多様な経験を積んでいるからではないかと思われます。なので、特段のトレーニングプログラムが必要であるとまでは言い難いように思います。とはいえ、今回の研修のように、調停の理論や技法を学ぶことは、極めて有益なことだと思いました。

   
日本仲裁人協会の
受講証明書

I took part in a Hague Convention Related Seminar, “Mediator Training in 2016 in English”, organized by Japan Arbitration Association.  It was held in Osaka from November 25 until November 27. 
At the begining of
the seminar, Ms. Hisako Kobayashi-Levin (former professor of Kyushu University) explained about a social background of ADR procedures in the USA, some theories related to conflict resolution, and so on.  I was surprised to hear that a peace movement and an anti-establishment movement affected theories related to conflict resolution.
After we learned mediation skills such as "Active-listening", "Paraphrasing", "Reframing", "Summarizing" and "Note-taking", we challenged roll playing sessions to practice those skills. 

I found the training program quite practical and useful.
 

2. ところで、大阪では天王寺に宿をとっていたので、早朝、天王寺公園を散歩することができました。
 天王寺公園には、茶臼山があります。茶臼山は、今放映中の大河ドラマ「真田丸」の舞台の一つであり、大坂冬の陣(1614年)では徳川家康の本陣、大阪夏の陣(1615年)では、真田幸村の本陣となったとところです。茶臼山の横に広がる池にかかる橋には、六文銭の旗がはためいていました。
 また、研修3日目の会場は、大阪城の近くだったので、昼休みを利用して、大阪城まで足をのばしました。以前訪れたのは小学生か中学生の頃だったように思います。掘も石垣も、記憶よりも大きくて、びっくりしました。
 今度、ゆっくりと訪問し、真田丸の位置等も確認してみたいものです。
  
早朝冷え込みました。
茶臼山が河底池の湖面に
きれいに映っています。
"Chausuyama" hill
and a pond in Tennoji Park
 
河底池にかかる橋。
欄干には、六文銭の旗がはためいていました。
奥に見えるビルは、あべのハルカスです。
A brige in the park 
 
大阪城
Osaka Castle
 
  As I stayed at the hotel in Tennoji, I walked in the Tennoji Park early in the morning.  There is "Chausuyama" in Tennoji Park, which is famous for the Siege of Osaka in 1614 and 1615. 
I also visited Osaka Castle during a lunch break of the seminar. 

2016年5月23日月曜日

名古屋大学で行われた“2016 Fintech Law Asia” & 名古屋城の清州櫓、那古野城跡、本丸御殿等を訪ねて(The Northwest Corner Turret, the Hommaru Palace, etc. of the Nagoya Castle)


1. 名古屋経済大学の法学研究科(大学院)で、今年4月から前期のみ、1コマ、「租税法基礎研究」を担当することになったのですが、その準備に精神的ゆとりを失いつつある今日この頃…(汗)。
 ブログの更新までなかなかままなりません(言い訳です…)。

2. 先月末になってしまいますが、名古屋大学でおこなわれた「2016 Fintech Law Asia」でケンブリッジ大学のロバート・ワードロップ氏の基調講演”The Asia-Pacific Alternative Finance Benchmarking Report-Harnessing Potential”やパネルディスカッション”The Crisis or Rise of Blockchain?”を聴く機会に恵まれました。
 そもそも、Alternative Financeとは何か?伝統的な銀行や資本市場からの資金調達にかわるもの…一般的にIT(情報技術)が不可欠であり、仮想通貨digital currencyやクラウドファンディングCrowd Fundingがこれにあたるのでしょう…。
 ワードロップ氏の調査では、アジア太平洋地域では、中国がダントツに多いようですね。
 日本では、現状、未だ活況を呈しているとは言い難く、法規制も未整備でしたが、金融庁は、今年3月、「情報通信技術の進展等の環境変化に対応するための銀行法等の一部を改正する法律案」を国会に提出ました。同法案には、仮想通貨と法定通貨の交換業者への登録制度導入等、仮想通貨に係る法制度の整備が含まれています。

I participated in the conference “2016 Fintech Law Asia”, which was held at Nagoya University at the end of April.  Mr. Robert Wardrop, Executive Director of Cambridge Centre for Alternative Finance made a keynote speech on “The Asia-Pacific Alternative Finance Benchmarking Report-Harnessing Potential”.  Alternative Finance is the financial instruments and channels emerging outside of the traditional banking or capital market system.
Alternative Finance in Japan is growing rather slowly.
This March, an amendment bill to the Banking Act of Japan was submitted to the Cabinet.  Under the amendment bill, a registration system for digital currency exchangers is to be introduced.

 

3.名古屋城の西北隅櫓(清洲櫓)、那古屋城跡、本丸御殿等を訪ねて

(1)  ゴールデンウイークには、特別公開されていた名古屋城の西北隅櫓をみにいってきました。
 西北隅櫓は、名古屋城の天守閣や御殿が完成した数年後の元和5年(1619年)頃に建てられた、外観3重、内部3階の櫓(矢倉)です。清須城の遺構が利用されたと考えられることから、「清洲櫓」ともよばれています。確かに、柱などに、古材を転用したと思われる痕跡がありました。
 西北隅櫓がある辺りは、御深井丸(おふけまる)といいます。自転車でお城周辺を走るとよくわかりますが、名古屋城の辺りは名古屋台地(以前ブログで触れました。)の北端となっていて、名古屋城から北に向かって下っています。なので、西北隅櫓がある辺りは、天守閣のある辺りよりも低地となっており、「ふけ」、すなわち、湿地だったようです。

    
西北隅櫓"清洲櫓”(重要文化財)
The Northwest Corner Turret
"Kiyosu Turret"

(Important Cultural Property)

    
櫓は平時には武器などの倉庫として使われ、
有事には攻撃のための陣地となります。
手前の柱には、転用の跡がみられます。
These kind of turrets were used
as a storage area for weapons
and sereved as an encampment
in an emergency.

石落とし
A stone-drop window (Ishiotoshi)
     
西北隅櫓から天守閣をのぞむ
The Donjon looking from
the window of the Northwest Corner Turret

以前、キャッスルホテルより撮影した西北隅櫓
The Northwest Corner Turret
I photographed from the Westin Nagoya Castle the ohter day.
(2) 名古屋城は、3回目ですが、裁判所の近くにありますので、城外からは、よ~く、よ~く、みています。1回目は小学生の頃、2回目は愛知万博の頃で、金鯱が地上に降りていて手で触れました(笑)。
 今回改めて思いましたが、皇居はともかく、名古屋城って、他のお城に比べて、やっぱり、大きいです。
 天守閣の石垣も立派!!仕方ないのだろうけど、排水管等は目立ちますね…。
 天守閣(5層、5階+地下1階)は、戦前、国宝に指定されていましたが、残念なことに、戦時中に被災し、1959年に鉄筋コンクリート造で再建されました。再建された天守については、耐震上の問題等により、河村市長が木造で建て直すとの案を公表しています。楽しみです!(個人的には、こういう文化財にも税金を利用してくれると嬉しいです。)
 現在、原則として旧来の材料・工法により再建中の本丸御殿(こちらもかつて国宝に指定されていましたが、戦時中に焼失しました。)の一部(表書院と玄関)が公開されていますが、長い年月を経て、伊賀上野城のように味わいがでてくるのかなあと思うと、楽しみです。

   
天守閣
The Tenshu (the Donjon)
       
小学生の頃訪れた際の名古屋城天守閣
The Donjon photographed
when I visited at the age of a primary schoolchild 
本丸御殿の玄関
The entrance of the Hommmaru Palace

本丸御殿の表書院。藩主と来客や家臣との公的な謁見に用いられた。
The omoteshoin, the main hall was used for official audiences.
   
左から右へ、天守閣、西南隅櫓(重文)、表二之門(重文)
The Donjon, The Southwest Conrner Turret, Front Second Gate
(from the left to the right)

(3) 名古屋城内の二の丸庭園には、「那古野城跡」があります。
 つまり、近世名古屋城は、戦国期の那古野城(一名「柳之丸」)が基になっているのです。
 那古野城は、戦国時代、名古屋台地西北端に築かれた今川氏の城でした。そして、織田信長の父、織田信秀が、那古野城主であった今川氏豊(義元の弟)より、泊りがけで連歌会によばれた際、夜に騒ぎを起こして城外に潜ませた兵を乱入させ、氏豊より簒奪したとされます。『名城と合戦の日本史』(小和田哲夫著)では、この簒奪について、以前の通説であった1532年(天文元年)よりも遅い1538年(天文7年)に生じたとする新井喜久夫氏の説を紹介し、支持されています。
 ということで、1534年(天文3年生)生まれの織田信長は、勝幡城(以前ブログでふれました)で誕生した後、1538年(天文7年)信秀の那古野城簒奪により那古野城に移り、1542年(天文11年)信秀が古渡城(こちらも以前ブログで触れました)を築いて移り住んでからは、幼い信長が那古野城主になって、幼年時代、少年時代を過ごしたということになるようです。

  
那古野城跡
The site of Nagoya Castle Ruins
 

(4) 信長公の居城を総括すると、勝幡城⇒那古野城⇒清須城⇒小牧山城⇒岐阜城⇒安土城となります。最近、お城の話題が続いて恐縮ですが、清州城、小牧山城、岐阜城についても、また、後日触れてみたいなと思います。 

I visited the Nagoya Castle during the Golden Week Holidays to see the Northwest Corner Turret (Seihoku Sumiyagura) which was open to the public only during the Holidays.  The Turret is a three-story building with a roof at each level, and it is said that many materials taken from the Kiyosu Castle were used in building the Turret in around 1619, because Ieyasu Tokugawa ordered, in 1610, the construction of the Nagoya Castle and the abandon of the Kiyosu Castle.

In the age of the provincial wars ahead of Edo era, the Imagawa clan built a castle near the site of the later Ninomaru Palace, which was demolished after the Meiji Restoration.  The recent researchers strongly suggest that Oda Nobuhide seized it from Imagawa Ujitoyo in 1538, and moved in from the Shobata Castle with his eldest son, Nobunaga Oda, the legendary warload of Owari (the western part of Aichi)..

The Hommaru Palace was designated as national treasure in 1930, but burned down during WWII.  The palace is under restoration based on respect for the remaining historical evidence, and only an Omote Shoin (a Main Hall) is now open to the public.

The Tenshu (the Donjon) with six-stories and five external levels, which was also designated as national treasure in 1930,  burned down during WWII, and so, the present Donjon was rebuilt in reinforced concrete in 1959.  On the occasion of Aichi Expo 2005, the golden "Shachi" (an imaginary animal which is said to be able to summon water and have come to be used as charms for preventing fire) was taken down from the roof of the Nagoya Castle and displayed within the grounds of the Castle (I could touch it at that time!).  Nagoya Mayor Takashi Kawamura announced a plan of reconstruction of the Donjon in wood, just as in the original structure, which I really appreciate.