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2020年3月18日水曜日

社史の出版


1. 新型コロナは、なかなか先行きがみえませんね。
影響がじわりじわりと多方面に広がっており、なんとか早い収束を願うばかりです。

2. ところで、昨年春から畑違いの分野に取り組んでいたものが、やっと、刷り上がりました(東京図書出版からの自費出版、非売品)。
 タイトルは、『服部産業株式会社とその前身橘町板屋の300年の歩み 板屋與三治や服部小十郎の足跡を求めて』です。
 ざっくりいうと、服部産業株式会社の社史となります。
 服部産業株式会社の前身は、橘町(中区橘)にあった「板屋」という木材商であり、明治に入って、現在の本店所在地がある下堀川町(中区松原)に移転しました。江戸末期の「いろは本組」には含まれませんが、名番頭與助(与助)の功績により、幕末には御勝手御用達格となっています。しかし、戦災による焼失等もあり、橘町板屋時代を含む資料の収集には、本当に苦労しました。
 調べてみると、『青窓紀聞』『鶏肋集』『金明録~猿猴庵日記』『松濤棹筆』『葎の滴』『古袖町勾欄記』等に、橘町板屋や板屋與三治の記事がみつかりました。これらは、ほとんどが、ぱらぱらと名古屋叢書や名古屋市図書館の「なごやコレクション」で頁を繰っていて、偶然みつけたもので、スキャンして検索をかけたわけではないので、ちょっとした言及は、まだまだあるのではないかと歯痒い思いをしています。
 他方で、インターネット検索でみつかった資料も結構ありました。全国の旧家、大学、研究機関等に保有されているくずし字の文献がデジタル化されれば、もっと、解明がすすむのではないかと期待されます。くずし字を読むソフトが開発されているとも聞きますから、あと10年もすると、資料が爆発的に増えてくる可能性も否定できないのかなと思ったりしています。
 とはいえ、あちらこちらに散らばっている資料を有機的に結びつけるのは、少々、根気を要しますね…。また、紙に落とし込まれていない人々の記憶というのは、本当に貴重です。多くの方にご助力いただいたことに感謝するとともに、あと10年早く今回の調査をしていれば…と思うことが、度々ありました。
 今回の調査をしていて、方丈記の有名な冒頭部分、「玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。…住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。」を何度も思い出しました。少なくとも、明治時代までは橘町に板屋があったことは確かですが、これを記憶している人は皆無でしょう(新家(しんや)とよばれる分家は戦前の昭和まで橘町におりましたので、これを記憶していらっしゃる方はおられました。)。
 橘町板屋の正確な所在を示した文献も見当たりませんでした。名古屋城下町復元プロジェクトでも、橘町と記しているのみ…。この点については、今回の調査の結果、明治半ばの「橘町2丁目7番」が江戸時代の橘町板屋の所在でもあると考えています(詳しくは、拙著に記してあります。)。
 橘町板屋では、現在初代と考えられている板屋與三治から5代までは「與三治(与三治)」を称していた(*)のに、6代、7代と、服部(板屋)小十郎と称していることも、資料が集まりにくい遠因となっているでしょうか。なお、詳細は不明ですが、「小十郎」は、江戸時代から使われており、「與三治」に因むと考えられるカタカナの「ヨ」を丸で囲んだ標章も、「小十郎」に因むと考えられる「板小」という屋号も、江戸時代から用いられているようです。
*與三次(与三次)、與惣治(与惣治)など、漢字にはバリエーションがります。また、4代は、與兵衛(与兵衛、誉兵衛)とする複数の資料があります。


 また、明治に入ってから、量器(升、枡)の製造部門は、「服部量器製作所」と称して、恵比寿大黒の登録商標を付した一斗升(圓壔形)、一合升(方形)等を、全国に移出していたようです。

 今回は、比較的短期間でまとめたので、脱稿後、新たな発見や間違いが続き、忸怩たる思いもしましたが、とりあえず、世に出し、また、情報を集めていくことにも意義があるのではないかと、自ら慰めている今日この頃です。その観点から、資料提供先である図書館等のほか、なるべく、大学図書館に寄贈したいなと思っています。


『服部産業株式会社とその前身橘町板屋の300年の歩み
板屋與三治や服部小十郎の足跡を求めて』
のカバー絵

2018年11月25日日曜日

日弁連研修「会社法と税法~役員報酬について~」、秋の比叡山を訪ねて


1. 日弁連実務研修「会社法と税法~役員報酬について~」

 今月初旬、残波事件で有名な山下清兵衛弁護士による「会社法と税法~役員報酬について~」と題した日弁連ライブ実務研修がありました(同研修は、東京で行われたものですが、愛知県弁護士会にもライブ配信されるため、名古屋で受講できます。)
 残波事件については、このブログでも軽くとりあげたことがあります。
http://hisaya-avenue.blogspot.com/2016/04/blog-post.html
http://hisaya-avenue.blogspot.com/2014/11/blog-post.html
 山本清兵衛弁護士のお話をうかがうのは初めてではありませんが、今回は、弁護士会の研修において、弁護士に向けて、法人税法34についての強烈なメッセージを発しておられました。それは…
・同条は、「天下の悪法」である
・役員報酬の決定は私的自治の範囲にあり、課税庁は虚偽給与だけを否認すればよいはずである
・同条2項「不相当に高額な」というのは課税要件であるのに、政令に包括委任しているようにみえるが、これについて、憲法違反としている租税法学者は一人もいない
・同条1項各号の定める例外は、使い勝手が悪い。折角、予想外の収益をあげることができても、役員が多めのボーナスをとることができない。日本の会社経営者のやる気をそぐ
などなどです。
 また、第二残波事件とよばれる事案(訴訟までいたることなく満額是認通知をもらったそうです。)や、東地判平成291013日についても、触れられていました。
 賛否はともかく、折角、興味深い研修なのに、研修が終了した際に、会場をみまわしたところ、なんと受講者は私一人しか残っていませんでした。残念です。

2.(1) 先日、愛知県の文化財の会で、比叡山延暦寺と日吉大社をたずねました。

(2)  比叡山延暦寺では、国宝の根本中堂と重要文化財の廻廊について、平成28年度から10年をかけて実施される保存修理事業の最中です。
 現在の根本中堂と廻廊は、かの有名な織田信長の焼き討ちの後、天海大僧正(慈眼大師)が江戸幕府第3代将軍徳川家光公に再建を進言し、寛永19年(1642年)に完成したもの。前回の大規模保存修理は、昭和29年に行われたそうですから、今から約60年前。屋根の全面葺き替え(根本中堂は銅板葺き、廻廊はとち葺き)や、柱・床組み等の塗り替え、保存修理が行われます。
 廻廊の屋根に用いられているとち葺きでは、厚さ
2.4cm、長さ30cmの板が少しずらして葺かれているのですが、「とち」ではなく、「サワラ」が使用されているそうです。
廻廊のとち葺き。
近くで見ると痛んでいるのがわかります。

上からみた廻廊。
普段ではみられないアングルですね。

 銅板葺きが用いられている根本中堂の屋根には、なんと、
14,000枚もの銅板が使用されているそうです。再建当初は、とち葺きだったとのことで、約100年後の葺き替え時でさえ、とち葺きの材料を調達するのは難しかったのかもしれません。見学者の一人がどのくらいの年数で緑青が生ずるのかと質問すると、「最近の銅は緑青が生じにくい」との意外な回答がありました。

根本中堂の銅板葺き。
はがれそうになっている箇所があります。

 塗装については、「丹塗(たんぬり)」と「ちゃん塗」の違いの説明があり、簡単にいうと、前者は水性、後者は油性で、雨露がかかるところは後者になっているようです。

丹塗りの部分。

ちゃん塗りの部分。
金具を外したところで元の色がわかります。

 修理事業の様子は、根本中堂の周りに設置された修学ステージから見学することができます。修理中、外観をみられないのは残念ですが、修学ステージは6階まであり、屋根を真横からみることができますので、一見の価値があると思います。
根本中堂の外観。
紅葉がきれいでした。

 根本中堂の中には、ご本尊の薬師瑠璃光如来(秘仏)、その宝前には「不滅の法灯」があります。ご案内いただいた僧侶のお話では、「延暦寺でなにか一つあげるとすれば不滅の法灯とおこたえしています。」とのこと。天台宗を開かれた伝教大師最澄の「一隅(いちぐう)を照らす」にも通じ、約1200年前から消えていないことが大事なのではなく、光を照らし続けていることに意味があるとおっしゃいます。
 延暦寺にお参りするのは、3度目です。最初は、小学生の頃の家族旅行で、比叡山国際観光ホテル(今はないようです。)に宿泊し、夜景がとてもきれいだった記憶です。2度目は、中学生の修学旅行。なので、落ち着いてお参りしたのは、今回が初めてだといえます。
 伝教大師最澄と弘法大師空海。平安仏教の両巨頭です。両者は、同じ頃、遣唐使の一員として唐に渡り、帰国後、しばらくは親交があったもののその後それは絶たれたといいます。空海については、国宝展でその書を目にしたり、あるいは、今年、偶々、夢枕獏さんの「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」を読んで、空海がどのように唐に渡り密教を学んだのかについて思いを馳せたりと、見聞きすることは多いです。また、以前、高野山の宿坊に泊まり、感銘を受けたことがあります。最澄については、学校で学んだ以上の知識はありません。もっと知りたいなと素直に思いました。
 

(3) 日吉大社は、全国3800余の日吉、日枝、山王神社の総本宮であり、今年、西本宮鎮座1350年を迎えるとのことです。
 宮司さんによれば、元々、神代より比叡山(八王子山)にいらっしゃる大山昨神(おおやまくいのかみ)を麓にお迎えして創祀されたそうですが、天智天皇が飛鳥から近江大津宮へ遷都した翌年である天智天皇7年(668年)に大和王朝の守護神であった大己貴神(おおなむちのかみ。大国主神の別名もある国造りの神様。)を大和国三輪山より勧請して西本宮にお祀りすることになったため、大山昨神(おおやまくいのかみ)は東本宮にてお祀りすることになったとのこと。当時の中央政権の神様をおよびしたからには、それに従うことになった地方政権は、お山がバックとなる麓のよい場所を譲らねばならなかったということでしょうか。
 日吉大社で祀られている神様は日吉大神と総称されるそうですが、伝教大師最澄が比叡山に延暦寺を建立した後は天台宗の護法神として崇敬されたそうで、中国の天台山の神様に因んで、山王権現とも呼ばれるそうです。日吉大社は、やはり織田信長の焼き討ちで灰燼に帰しましたが、日吉造で再建された西本宮本殿、東本宮本殿は、ともに、国宝に指定されています。日吉造(ひえづくり、聖帝造り(しょうたいづくり)ともいう。)とは、三間・二間の身舎(もや)の前面、両側面の三方に廂がめぐらされた形をしており、全国でも日吉大社にのみ現存する様式だそうです。また、神仏混交であったため、床下には下殿(げでん)と呼ばれるスペースがあり、それぞれ、釈迦如来などのご本尊が祀られていたというのも注目すべき点でしょうか。西本宮で正式参拝した後、下殿にいれていただきましたが、明治以降の神仏分離により、現在では、神式の祭壇となっていました。

日吉大社の西本宮。
柿がなっていました。
「神猿(まさる)」が好んで食べることから
「猿柿」とよばれているそうです。

宮司さんがいらっしゃるところに
下段への入口があります。
勿論、勝手には入れません。
今回はいけませんでしたが
山の中腹には、日吉大社の奥宮が
みえています。
 

2018年10月30日火曜日

弁護士会の行事(佐久島、将棋)、弁護士自治と非弁行為の禁止


1.  10月も明日で終わり。今年も残すところ2ヶ月ほど…。本当に、「あっ」という間に、時が過ぎていきます(涙)。

2.  今月は、日本税法学会の中部地区勉強会で柄にもなく発表するため、慣れない準備で、相当、あたふたしたりしましたが(また、この件もご報告したいです。)、他方で、弁護士会の楽しい行事もありました。
 一つは、所属する弁護士会の会派が主催した佐久島を訪ねる日帰旅行。佐久島は、日間賀島や篠島と同じく、三河湾に浮かぶ離島。3つの中では、一番大きいのに、人口は一番少ないらしい…。佐久島は、「癒やしとアートの島」を標榜しており、自転車を借りて、「おひるねハウス」や「かもめの駐車場」などの現代アートをみてまわりました。勿論、お昼は、お刺身やゆで蛸に舌鼓を打ちました。朝市には、岩牡蠣も!また、驚いたのは、佐久島には、古墳がいっぱいあったこと。古墳があるということは、豪族がいたということ、すると、古代、佐久島には何らかの産物があり、本土と交易して栄えていたのかな…?などと想像が広がります。

     「お昼寝ハウス」   「かもめの駐車場」

 もう一つは、中弁連の将棋大会の後に行われた杉本昌隆七段と香川愛生女流三段のトークショー(将棋大会にはでていません笑)。以前、このブログで、杉本七段のトークショーにいったことに触れたことがありました。新しい藤井七段ネタとしては、杉本七段が出版された「弟子・藤井聡太の学び方」には藤井七段のことが書いてあるので、出版前にみてもらったところ、出版社より厳しいゲラチェックが入ったとか…笑。今度は、香川女流三段の素晴らしい聞き手もあり、以前にも増して、楽しかったです。香川女流は、頭の回転が速くて受け答えがとても面白いし、私が失礼にも市販の扇子を差し出したところ、快く揮毫してくださり、その優しい人柄に感激してしまいました!!
色紙をもっていなくて、
鞄の中に入っていた市販の扇子を
恐縮しながらだしたところ、
快く、揮毫してくださり、
感激でした!
 

3. ところで、弁護士会は、強制加入団体なので、弁護士名簿に登録すると、必ず、どこかの弁護士会の会員にならなければなりません(弁護士法361項)。弁護士会の歴史は明治13年の代言人規則に基づく代言人組合にまで遡れるそうで(高中正彦『弁護士法概説』)、戦前の旧弁護士法下では、司法大臣の監督を受けるものとされていました(旧弁護士法34条)。これに対し、現弁護士法は、「弁護士会は、弁護士及び弁護士法人の使命及び職務にかんがみ、その品位を保持し、弁護士及び弁護士法人の事務の改善進歩を図るため、弁護士及び弁護士法人の指導、連絡及び監督に関する事務を行うことを目的とする。」(弁護士法31条)と規定するとおり、弁護士会が弁護士を指導監督し、監督官庁はない、すなわち、弁護士自治を有するというのが、弁護士の誇りといえるでしょうか。医師会や歯科医師会は任意加入団体ですし、税理士会は強制加入団体ですが、監督官庁がありますね。
 また、弁護士法72条は、「弁護士又は弁護士法人でない者は、報酬を得る目的で訴訟事件、非訟事件及び審査請求、再調査の請求、再審査請求等行政庁に対する不服申立事件その他一般の法律事件に関して鑑定、代理、仲裁若しくは和解その他の法律事務を取り扱い、又はこれらの周旋をすることを業とすることができない」と規定します。いわゆる非弁行為の禁止です。最近、これに違反するのでは…?というドラマが話題となっていますが、週末の新聞にそのプロデューサーの記事がでており、非弁には配慮して一定のルールを守っているとのことでした。一度みてみなくては!

2017年2月13日月曜日

節税養子に関する最判平成29年1月31日The Supreme Court’s decision dated January 31, 2017 regarding ‘Tax-avoidance adoption”、長篠城址・田原城跡 The sites of "Nagashino Castle" and “Tahara Castle”


1.「節税養子」に関する最判平成29131
The Supreme Court’s decision dated January 31, 2017 regarding ‘Tax-avoidance adoption”

(1) 養子制度について、日本では、欧米と比較して、子の福祉のために使われることは少なく、多様な目的に使われているといわれます(内田『民法Ⅳ』)。そのうちの一つが“節税養子”(“相続税養子”)でしょう。
 特に、いわゆる“孫養子”は、直系卑属を養子とするため家裁の許可不要であり(民法798条但書)、また、昭和63年度税制改正(*)等もありましたが、なお、相続税の節税効果が期待され、富裕層の間では孫養子が利用されることも、そう珍しいことではないように思います

*昭和60年前後から、相続税の節税目的で、近親者を養子とする例が頻発したため、昭和63年度に次のような改正がありました。

①実子相続人がいる場合には、被相続人の養子のうち一人のみを法定相続人の数に含める(相続税法1521号・3項)

②実子相続人がいない場合には、被相続人の養子のうち二人までのみを法定相続人の数に含める(同条項2号)

③①および②のいずれの場合でも、「相続税の負担を不当に減少させる結果となると認められる場合においては」、税務署長は、養子の数を法定相続人の数に含めないで計算できる(相続税法63

**相続人が被相続人の一親等の血族(代襲相続人となった直系卑属を含む)および配偶者以外の者である場合、相続税額は20%加算されます(相続税法181項)が、平成15年度改正により、養子となった孫もこれに含まれます(同条2項)。
 
***なお、相続税の基礎控除額等に係る平成25年度改正については、以前、事務所通信でとりあげたことがありますので、こちら(↓)をご覧ください。
http://www.hisaya-ave.com/tsushin3p7.html

  http://www.hisaya-ave.com/tsushin3p8.html 

(2) 民法は、「人違いその他の事由によって当事者間に縁組をする意思がないとき」は、養子縁組を無効としている(民法8021)ところ、節税対策孫養子について、「縁組をする意思を欠く」ことから養子縁組は「無効である」と主張してその確認を求めた訴訟の最高裁の判決(最判平成29131日)がでました。
判決文はこちら(↓)
http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/480/086480_hanrei.pdf 

(3)  最高裁の判決によると、原審である東京高裁が認定した事実は、次のとおり。
 亡くなったおじいさんAは、自宅を訪れた税理士等から、長男Bとその妻Cとの間に平成23年に出生した孫であるYを養子とすると、基礎控除額が増えることなどによる節税効果がある旨の説明をうけて、平成24年に養子縁組届を提出しました(届には、養子となるYは未成年のためその親権者である両親BC、養親となるA、および、Aの弟夫婦が証人として、署名押印)。この養子縁組について、Aの長女X1、次女X2が無効を主張しました。
 原審である東京高裁は、「専ら相続税の節税のためになされたもの」としたうえで、「縁組をする意思がないとき」にあたるとし、X1X2の無効確認請求を認容しました。
 これに対し、最高裁は、「相続税の節税の動機縁組をする意思とは、併存し得るものである。」とし、「専ら相続税の節税のために養子縁組をする場合であっても、直ちに当該養子縁組について民法
8021号にいう『当事者間に縁組をする意思がないとき』にあたるとすることはできない。」と判示しました。
 その上で、本件養子縁組について、「縁組をする意思がないことをうかがわせる事情はなく、『当事者間に縁組をする意思がないとき』にあたるとすることはできない」との結論をくだしています(X1X2の無効確認請求を認容した原審(東京高裁)の判決を破棄)。
 既に述べたように、節税対策の孫養子は、そう珍しい話ではないと思われるので、最高裁の結論に、胸をなでおろした方も多いのでは…。
 ただし、「専ら相続税の節税のために養子縁組をする場合」でも、「直ちに」縁組をする意思がないといえないとしているだけで、「縁組をする意思がないことをうかがわせる事情」があれば結論が違ってくる可能性は残しています。また、前述のように、相続税法63条は、「第15条第2項各号に掲げる場合において当該各号に定める養子の数を同項の相続人の数に算入することが、相続税の負担を不当に減少させる結果となると認められる場合においては、税務署長は、相続税についての更正又は決定に際し、税務署長の認めるところにより、当該養子の数を当該相続人の数に算入しないで相続税の課税価格(…)及び相続税額を計算することができる」と規定しているのには、留意が必要です。
 
In Japan, it is not rare for a person of wealth to adopt one’s grandchild in order to reduce inheritance tax, because under the Inheritance Tax Act, the basic deduction from the taxable assets increases as the number of legal heirs. The Supreme Court on January 31, 2017 decided that the motivation for Tax Avoidance could be compatible with the intention of the adoption, and will not automatically annul the adoption.

2.長篠城址、田原城跡
   The sites of "Nagashino Castle" and “Tahara Castle”

(1) 先日、桶狭間の戦いに関連する史跡巡りについて、このブログでふれました。本日は、ちょっと前に訪れた長篠の合戦で有名な長篠城址等の散策について、ご紹介を…。

(2) 長篠城址は、新城市にあり、本丸の土塁や堀が残っているほか、史跡保存館があります。
 天正
3年(1575)におきた長篠の合戦は、武田の騎馬隊に対し、鉄砲隊を擁する信長軍が馬防柵を用いたことで夙に有名であり、歴史の教科書にもその場面を描いた合戦図がのっていたように思います。
 このように長篠の戦いというと野戦が真っ先に思い浮かびますが、史跡保存館をたずねると、長篠城を武田勝頼軍が包囲したことによる攻防戦からはじまった等の経緯が史跡と共に紹介されています。
 長篠の合戦に先立つ1573年、京都を目指した武田信玄は病気のため甲州へ引き返す帰途に死去、その死は当初伏せられていましたが、すぐに信玄死すとのうわさが広まり、同年、徳川家康が長篠城を占領しました。ちなみに、長篠城は、元々、1508年に今川義元の将、菅沼元成が築いたそうで、1571年より武田氏に属していたようです。
 武田信玄は「3年間は戦をやめて国力充実につとめよ。」と言い残しましたが、武田勝頼はこのいいつけを守らず、1575年、15千の兵をもって長篠城を包囲。長篠城主となっていた徳川家康の家臣、奥平貞昌は、500の兵と共に籠城し、織田信長・徳川家康の連合軍が到着するまでの約10日間、長篠城を守りきったそうです。
 信長・家康の連合軍は到着すると設楽原に陣を築いたため、武田軍は長篠城の囲みをといて設楽原に進出、壮絶な戦いとなります。武田軍はこの野戦(設楽原決戦)で大敗、重臣を含め約1万もの死傷者をだし、敗走。
 長篠の合戦時、織田信長は42歳、羽柴秀吉は39歳、徳川家康は34歳、武田勝頼は30歳だったといいます。
 織田信長は、長篠の戦いの後、さらに天下人への道を歩んでいきます。

 他方、武田氏の勢力は弱まり、15823月に滅亡。昨年の大河ドラマ「真田丸」では武田氏の凋落や勝頼の悲哀がよく描かれていて、涙を誘いました。
 ところが、奇しくも同年6月、織田信長も本能寺の変にて天下取りの志半ば、この世を去ります。
 このような歴史の舞台となった長篠城は、1576年、廃城となりました。
 かつて、歴史の授業では、桶狭間と長篠の順番・内容を記憶するのに苦労した覚えがありますが、こうやって、実際に訪ねてみると、実感をもって記憶できます(笑)。
   
長篠城址
a stone stela

   
長篠城の本丸跡
a site of Honmaru


長篠城の内堀跡
a moat


(3) 長篠城址を訪れた後、渥美半島まで足をのばし、いちご狩りを楽しみました。また、田原城跡にもまいりました。
 田原城は、渥美半島のほぼ中央に位置し、1480年頃、戸田宗光により築城されました(当時、三河の国の一色氏の勢力下)。
 『愛知の城』(山田柾之著)によれば、戸田氏の最盛期は、宗光の嫡男・憲光の頃。1506今川氏親とともに吉田城を攻略して次男を配し、二連木城には嫡男を配し、大崎・大津・北裏城によって本城を守り、知多半島南半も従来通り領有し、東三河の雄となっていたとのこと。ところが、1547年、松平広忠が今川氏への人質として嫡男竹千代(後の徳川家康)を送ろうとした際、戸田宗光・堯光親子は、竹千代を途中で奪い、尾張の織田信秀に渡してしまいました。このため、今川氏に攻められた田原城は落ち、戸田氏は没落の非運を辿ります。
 その後、田原城の城主は何度か変わり、明治維新の際には三宅氏の居城だったところ、廃藩置県により、本丸殿舎や二の丸櫓といった建築物は解体されてしまいました。

 田原城は、周辺の海が入込み、堀の一部は自然堀だったそうで、巴文に似ていたことから、別名を「巴江城」(はこうじょう)ともいいます。
 土塁や堀などが残っており(石垣は新しい?)、また、敷地内には、田原市博物館もあります。
 
  
田原市博物館
Tahara Municipal Museum


田原城の復元された
二の丸櫓(右)と桜門(左)
Reconstructed
"Ninomaru-yagura (turret)" (right)
and  "Sakura- mon (gate)" (middle)

  
田原城の桜門
"Sakura-mon (gate)"
of Tahara Castle

 
田原城の曲輪等の名称を示した図
a map of Tahara Castle

I visited the sites of Nagashino Castle and Tahara Castle.
A site of Nagashino Castle is located in Shinshiro city, Aichi Prefecture, and well known as a site of the Battle of Nagashino between the allied forces of Nobunaga Oda and Ieyasu Tokugawa against Katsuyori Takeda in 1575.
A site of Tahara Castle is located in the middle of the Atsumi Peninsula.  It was constructed by Munemitsu Toda around 1480, and remained residence of the Miyake clan until the Meiji Restoration.

2017年1月29日日曜日

千葉家裁松戸支部の控訴審判決(東京高判平成29年1月26日)The Tokyo High Court judgement dated January 26, 2017、桶狭間周辺の史跡巡り The historical spots around Okehazama


1. 離婚裁判において親権が争われた松戸事件の控訴審判決(東京高判平成29126日)
The Tokyo High Court judgement dated January 26, 2017

 昨年、ブログでふれた千葉家裁松戸支部平成
28329判決の控訴審判決(東京高判平成29126日)がでましたね。
 控訴審の判決文はまだ読んでいませんが、報道によると、第一審判決を変更し、母親を親権者としたようです。
 第一審判決を読むと、父親は、仕事一辺倒の生活を改め、家事や育児の分担を大幅に増やした矢先、夕方長女を保育所に迎えに行ったところ、長女が保育園におらず、帰宅後、母親が長女を連れて出たことに気付いたとのこと。このように母親は父親の了解を得ることなく子を連れだし、その後(第一審判決時には)約510か月間、父親との面会交流に合計で6回程度しか応じていませんでした。その上で、第一審は、母親は面会交流を月一回程度の頻度とすることを希望しているのに対し、父親は、年間100日に及ぶ面会交流の計画を提示していることなども総合考慮して、父親を親権者と指定するのが相当であると判示しました。このため、同判決は、「寛容性の原則」を採用したとの評価があります。
 これに対し、控訴審は、「面会は親権者を決める唯一の判断基準ではない。子供の意思や父母との関係など、他の事情よりも重要性が高いとはいえない」、「別居前から主に母が…監護し、安定した生活をしている。」、子も母親と一緒に暮らす意向がある等とした上で、子の利益を最も優先すれば、母親を親権者とするのが相当であると判断したようです。このように、報道に接したところでは、控訴審は、従来通りの「監護の継続性の原則」を採用したものと思われます。
 父親は上告するとのことですが…。
 何が「子の最善の利益」か…は、本当に難しい問題です。


 
    The Tokyo High Court, on January 26, 2017, reversed the judgment of the Matsudo branch of the Chiba District Court dated March 29, 2016.
The Matsudo judgment was regarded as the one in which the friendly parent rule was adopted.  I
n its decision i
t appointed a husband (a left behind father) as a parental authority of a child, considering that he submitted a parenting plan providing 100 days visitation chance to his wife, while she offered once a month visitation chance to him.
However, the Tokyo High Court decided to
appoint the wife as the parental authority of the child, considering that she had been the primary care-giver of the child and the child was spending a stable life.
It has always been a really difficult question “What is the child’s best interest?”

 2.桶狭間周辺の史跡巡り
The historical spots around Okehazama

 
 (1) 桶狭間周辺の史跡をまわってみました。
 まずは、ネットで調べた「酒楽亭 空庵」で腹ごしらえ(笑)。ラーメンにのっている鴨がレアでおいしかったです。


「酒楽亭 空庵」の
鴨はちラーメン
Kamohachi Ramen
(Ramen noodles with canard viande)
at Shurakutei-Kuan

 

(2)  次に、桶狭間古戦場公園(田楽坪)にいってみました。
 桶狭間古戦場公園は、かの桶狭間の戦い(1560)の中心地で、今川義元公の最期の地だといいます。
 公園内には、「今川義元公馬繋ぎの『ねずの木』」や「駿公墓碣」(すんこうぼけつ)があります。公園内の掲示板によれば、「ねずの木」は、着陣した今川義元公が田楽坪の泉で水を飲むために馬をつないだ木であるとして「ねず塚」として残され、なんと、この木に触れると熱病にかかるとの言い伝えがあるとか(怖)。また、「墓碣」の方は、「ねず塚」に埋められているのが、昭和28に偶然発見されたそうで、当時の村人が敗軍の将を弔うためにひっそり埋めて供養したのではないかとのこと。

  ここで、ボランティアガイドさんが声をかけてくださり、「リアル宝探し」を紹介されたので、これに挑戦しつつ、瀬名氏俊陣地跡長福寺桶狭間神明社戦評の松高根山とまわりました。

桶狭間古戦場公園内の
織田信長公と今川義元公の銅像
The statue of Nobunaga Oda (left)
 and Yoshimoto Imagawa (right)
in Okehazama Kosenjo Park
桶狭間古戦場公園内の
桶狭間の戦い案内
A map of a histric battlefiled of Okehazama


長福寺の境内。
池の脇では、今でも泉が湧き出ています。
ボランティアガイドさんは、
「桶狭間」の地名の由来は、
桶がくるくる廻るくらい
泉が勢いよく湧き出ていたからだと
おっしゃっていました。
(地名の
由来は諸説あるようです。)
A pond in Chofukuji Temple
recieves water from a spring.


桶狭間神明社。
桶狭間の戦いでは、
先発の瀬名氏俊が
武運を祈願したといいます。
Okehazama Shinmeisha Shrine
高根山にある有松神社。
高根山は標高54.5メートルで
付近では一番高いといいます。
桶狭間の戦いでは
松井宗信隊が着陣し
善照寺砦、中島砦方面の織田軍の動静を
監視したそうです。
(「桶狭間史跡マップ」より)
Takaneyama (Takane hill)



高根山から名古屋駅方面を望む
The center of the Nagoya city (around Nagoya Station)
looking from the top of Takaneyama
 
 

(3)  桶狭間の戦いにおいて、織田信長は、十倍以上の戦力を有する今川義元を破るため、当時の常識を破り、奇襲をかけて、大将の首をとった…、とてもドラマティックゆえ、数々の小説やドラマで描かれていていますよね。
 当日の信長のスケジュールは…。午前4時頃、清州城で鷲津砦・丸根砦が今川軍の攻撃を受けたとの報告を聞き、「敦盛」を舞ってから出陣、午前8時頃熱田神宮で戦勝を祈願、午前10時頃に善照寺砦に着き、本陣ここにありと見せかけておいて、雷雨の中を今川義元の本陣近くの釜ケ谷に進み、雨がやむや、今川軍に突撃したとのこと(公園内掲示板「信長公記」より。)。

  交通機関が発達した現代からみると、馬での移動にもかかわらず、すごい機動力があるように感じますが、当時としては、どうだったのでしょうか。

         
以前訪れた熱田神宮の信長塀。
桶狭間の戦いでの戦勝を祈願した織田信長が
大勝の御礼として奉納したとされます。
"Nobunaga Bei" in Atsuta Shrine
I visited the other day.
It was donated by Nobunaga Oda
as a token of the gratitude
for his victory of
Okehazama battle.


(4)  その後、イオン大高で買い物をすませ、帰途、大高城跡にも寄ってみました。
 今川義元は、桶狭間の戦いの際、前日に沓掛城に入り、大高城に向かう途中に休息していたところを、織田信長の襲撃をうけたといいます(前掲掲示板)。

  大高城は、東西約160メートル、南北32メートル、四方を二重の堀で巡らしていたといいます(大高城跡掲示板)。今川義元は大高城を重視しており、松平元康(家康)に兵糧輸送を命じこれに成功したことから、「大高の兵糧入れ」でも有名です。桶狭間の戦いの後は、一旦廃城となりましたが、大阪城落城の後、尾張藩の家老、志水忠宗がこの地に一万石を領し、城跡に館を設けて明治維新まで代々続いたそうです(山田柾之『愛知の城』より。)
                  
大高城跡。史跡に指定され
公園になっています。
a site of "Odaka Castle"
        
本丸跡?
左側の高くなっているところには
城山八幡社があります。
a site of "Honmaru"  ?

(5)  桶狭間周辺は、史跡が密集しており、また、古い民家を含め住宅密集地となっているにもかかわらず、結構、小高い丘が、ポツポツとあり、往時の戦いをしのびやすく、とても楽しい時間が過ごせました。

イオン大高の駐車場からの眺め
View from Aeon Mall Odaka

 
大高城跡近辺の街並み
a histrical streetscape
near the site of Odaka Castle

          I visited the historical spots around the Okehazama hill (allias "Dengakutsubo") where Yoshimoto Imagawa, the lord of Suruga, Totoumi, and Mikawa, was killed at the battle of Okehazama in 1560.  The battle was one of the most important events in the history of Japan.  Nobunaga Oda, the lord of Owari defeted Yoshimoto Imagawa whose army had ten times more soldiers than Oda's army.