1. 名古屋経済大学の法学研究科(大学院)で、今年4月から前期のみ、1コマ、「租税法基礎研究」を担当することになったのですが、その準備に精神的ゆとりを失いつつある今日この頃…(汗)。
ブログの更新までなかなかままなりません(言い訳です…)。
ブログの更新までなかなかままなりません(言い訳です…)。
2. 先月末になってしまいますが、名古屋大学でおこなわれた「2016 Fintech Law Asia」でケンブリッジ大学のロバート・ワードロップ氏の基調講演”The Asia-Pacific Alternative Finance Benchmarking
Report-Harnessing Potential”やパネルディスカッション”The Crisis or Rise of Blockchain?”を聴く機会に恵まれました。
そもそも、Alternative Financeとは何か?伝統的な銀行や資本市場からの資金調達にかわるもの…一般的にIT(情報技術)が不可欠であり、仮想通貨digital currencyやクラウドファンディングCrowd Fundingがこれにあたるのでしょう…。
ワードロップ氏の調査では、アジア太平洋地域では、中国がダントツに多いようですね。
日本では、現状、未だ活況を呈しているとは言い難く、法規制も未整備でしたが、金融庁は、今年3月、「情報通信技術の進展等の環境変化に対応するための銀行法等の一部を改正する法律案」を国会に提出ました。同法案には、仮想通貨と法定通貨の交換業者への登録制度導入等、仮想通貨に係る法制度の整備が含まれています。
そもそも、Alternative Financeとは何か?伝統的な銀行や資本市場からの資金調達にかわるもの…一般的にIT(情報技術)が不可欠であり、仮想通貨digital currencyやクラウドファンディングCrowd Fundingがこれにあたるのでしょう…。
ワードロップ氏の調査では、アジア太平洋地域では、中国がダントツに多いようですね。
日本では、現状、未だ活況を呈しているとは言い難く、法規制も未整備でしたが、金融庁は、今年3月、「情報通信技術の進展等の環境変化に対応するための銀行法等の一部を改正する法律案」を国会に提出ました。同法案には、仮想通貨と法定通貨の交換業者への登録制度導入等、仮想通貨に係る法制度の整備が含まれています。
I participated in the
conference “2016 Fintech Law Asia”, which was held at Nagoya University at the end of
April. Mr. Robert Wardrop, Executive
Director of Cambridge Centre for Alternative Finance made a keynote speech on “The
Asia-Pacific Alternative Finance Benchmarking Report-Harnessing Potential”. Alternative Finance is the financial
instruments and channels emerging outside of the traditional banking or capital
market system.
Alternative Finance in Japan is growing rather slowly.
This March, an amendment bill to the Banking Act of Japan was submitted to the Cabinet. Under the amendment bill, a registration system for digital currency exchangers is to be introduced.
Alternative Finance in Japan is growing rather slowly.
This March, an amendment bill to the Banking Act of Japan was submitted to the Cabinet. Under the amendment bill, a registration system for digital currency exchangers is to be introduced.
3.名古屋城の西北隅櫓(清洲櫓)、那古屋城跡、本丸御殿等を訪ねて
(1) ゴールデンウイークには、特別公開されていた名古屋城の西北隅櫓をみにいってきました。
西北隅櫓は、名古屋城の天守閣や御殿が完成した数年後の元和5年(1619年)頃に建てられた、外観3重、内部3階の櫓(矢倉)です。清須城の遺構が利用されたと考えられることから、「清洲櫓」ともよばれています。確かに、柱などに、古材を転用したと思われる痕跡がありました。
西北隅櫓がある辺りは、御深井丸(おふけまる)といいます。自転車でお城周辺を走るとよくわかりますが、名古屋城の辺りは名古屋台地(以前ブログで触れました。)の北端となっていて、名古屋城から北に向かって下っています。なので、西北隅櫓がある辺りは、天守閣のある辺りよりも低地となっており、「ふけ」、すなわち、湿地だったようです。
西北隅櫓は、名古屋城の天守閣や御殿が完成した数年後の元和5年(1619年)頃に建てられた、外観3重、内部3階の櫓(矢倉)です。清須城の遺構が利用されたと考えられることから、「清洲櫓」ともよばれています。確かに、柱などに、古材を転用したと思われる痕跡がありました。
西北隅櫓がある辺りは、御深井丸(おふけまる)といいます。自転車でお城周辺を走るとよくわかりますが、名古屋城の辺りは名古屋台地(以前ブログで触れました。)の北端となっていて、名古屋城から北に向かって下っています。なので、西北隅櫓がある辺りは、天守閣のある辺りよりも低地となっており、「ふけ」、すなわち、湿地だったようです。
西北隅櫓"清洲櫓”(重要文化財) The Northwest Corner Turret "Kiyosu Turret" (Important Cultural Property) |
櫓は平時には武器などの倉庫として使われ、 有事には攻撃のための陣地となります。 手前の柱には、転用の跡がみられます。 These kind of turrets were used as a storage area for weapons and sereved as an encampment in an emergency. |
石落とし A stone-drop window (Ishiotoshi) |
西北隅櫓から天守閣をのぞむ The Donjon looking from the window of the Northwest Corner Turret |
以前、キャッスルホテルより撮影した西北隅櫓 The Northwest Corner Turret I photographed from the Westin Nagoya Castle the ohter day. |
(2) 名古屋城は、3回目ですが、裁判所の近くにありますので、城外からは、よ~く、よ~く、みています。1回目は小学生の頃、2回目は愛知万博の頃で、金鯱が地上に降りていて手で触れました(笑)。
今回改めて思いましたが、皇居はともかく、名古屋城って、他のお城に比べて、やっぱり、大きいです。
天守閣の石垣も立派!!仕方ないのだろうけど、排水管等は目立ちますね…。
天守閣(5層、5階+地下1階)は、戦前、国宝に指定されていましたが、残念なことに、戦時中に被災し、1959年に鉄筋コンクリート造で再建されました。再建された天守については、耐震上の問題等により、河村市長が木造で建て直すとの案を公表しています。楽しみです!(個人的には、こういう文化財にも税金を利用してくれると嬉しいです。)
現在、原則として旧来の材料・工法により再建中の本丸御殿(こちらもかつて国宝に指定されていましたが、戦時中に焼失しました。)の一部(表書院と玄関)が公開されていますが、長い年月を経て、伊賀上野城のように味わいがでてくるのかなあと思うと、楽しみです。
今回改めて思いましたが、皇居はともかく、名古屋城って、他のお城に比べて、やっぱり、大きいです。
天守閣の石垣も立派!!仕方ないのだろうけど、排水管等は目立ちますね…。
天守閣(5層、5階+地下1階)は、戦前、国宝に指定されていましたが、残念なことに、戦時中に被災し、1959年に鉄筋コンクリート造で再建されました。再建された天守については、耐震上の問題等により、河村市長が木造で建て直すとの案を公表しています。楽しみです!(個人的には、こういう文化財にも税金を利用してくれると嬉しいです。)
現在、原則として旧来の材料・工法により再建中の本丸御殿(こちらもかつて国宝に指定されていましたが、戦時中に焼失しました。)の一部(表書院と玄関)が公開されていますが、長い年月を経て、伊賀上野城のように味わいがでてくるのかなあと思うと、楽しみです。
天守閣 The Tenshu (the Donjon) |
小学生の頃訪れた際の名古屋城天守閣 The Donjon photographed when I visited at the age of a primary schoolchild |
本丸御殿の玄関 The entrance of the Hommmaru Palace |
本丸御殿の表書院。藩主と来客や家臣との公的な謁見に用いられた。 The omoteshoin, the main hall was used for official audiences. |
左から右へ、天守閣、西南隅櫓(重文)、表二之門(重文) The Donjon, The Southwest Conrner Turret, Front Second Gate (from the left to the right) |
(3) 名古屋城内の二の丸庭園には、「那古野城跡」があります。
つまり、近世名古屋城は、戦国期の那古野城(一名「柳之丸」)が基になっているのです。
那古野城は、戦国時代、名古屋台地西北端に築かれた今川氏の城でした。そして、織田信長の父、織田信秀が、那古野城主であった今川氏豊(義元の弟)より、泊りがけで連歌会によばれた際、夜に騒ぎを起こして城外に潜ませた兵を乱入させ、氏豊より簒奪したとされます。『名城と合戦の日本史』(小和田哲夫著)では、この簒奪について、以前の通説であった1532年(天文元年)よりも遅い1538年(天文7年)に生じたとする新井喜久夫氏の説を紹介し、支持されています。
ということで、1534年(天文3年生)生まれの織田信長は、勝幡城(以前ブログでふれました)で誕生した後、1538年(天文7年)信秀の那古野城簒奪により那古野城に移り、1542年(天文11年)信秀が古渡城(こちらも以前ブログで触れました)を築いて移り住んでからは、幼い信長が那古野城主になって、幼年時代、少年時代を過ごしたということになるようです。
つまり、近世名古屋城は、戦国期の那古野城(一名「柳之丸」)が基になっているのです。
那古野城は、戦国時代、名古屋台地西北端に築かれた今川氏の城でした。そして、織田信長の父、織田信秀が、那古野城主であった今川氏豊(義元の弟)より、泊りがけで連歌会によばれた際、夜に騒ぎを起こして城外に潜ませた兵を乱入させ、氏豊より簒奪したとされます。『名城と合戦の日本史』(小和田哲夫著)では、この簒奪について、以前の通説であった1532年(天文元年)よりも遅い1538年(天文7年)に生じたとする新井喜久夫氏の説を紹介し、支持されています。
ということで、1534年(天文3年生)生まれの織田信長は、勝幡城(以前ブログでふれました)で誕生した後、1538年(天文7年)信秀の那古野城簒奪により那古野城に移り、1542年(天文11年)信秀が古渡城(こちらも以前ブログで触れました)を築いて移り住んでからは、幼い信長が那古野城主になって、幼年時代、少年時代を過ごしたということになるようです。
那古野城跡 The site of Nagoya Castle Ruins |
(4) 信長公の居城を総括すると、勝幡城⇒那古野城⇒清須城⇒小牧山城⇒岐阜城⇒安土城となります。最近、お城の話題が続いて恐縮ですが、清州城、小牧山城、岐阜城についても、また、後日触れてみたいなと思います。
I visited the Nagoya
Castle during the Golden Week Holidays to see the Northwest Corner Turret (Seihoku Sumiyagura) which
was open to the public only during the Holidays. The Turret is a three-story building with a roof at
each level, and it is said that many materials taken from the Kiyosu Castle
were used in building the Turret in around 1619, because Ieyasu Tokugawa ordered,
in 1610, the construction of the Nagoya Castle and the abandon of the Kiyosu Castle.
In the age of the
provincial wars ahead of Edo era, the Imagawa clan built a castle near
the site of the later Ninomaru Palace, which was demolished after the Meiji Restoration. The recent researchers strongly suggest that Oda
Nobuhide seized it from Imagawa Ujitoyo in 1538, and moved in from the Shobata
Castle with his eldest son, Nobunaga Oda, the legendary warload of Owari (the
western part of Aichi)..
The Hommaru
Palace was designated as national treasure in 1930, but burned down during WWII. The palace is under restoration
based on respect for the remaining historical evidence, and only an Omote Shoin (a Main Hall) is now open to the
public.
The Tenshu (the
Donjon) with six-stories and five external levels, which was also designated as national treasure in 1930, burned
down during WWII, and so, the present Donjon was rebuilt in reinforced concrete in 1959.
On the occasion of Aichi Expo 2005, the golden "Shachi" (an imaginary animal which
is said to be able to summon water and have come to be used as charms for
preventing fire) was taken down from the roof of the Nagoya Castle and displayed
within the grounds of the Castle (I could touch it at that time!). Nagoya Mayor Takashi Kawamura announced a
plan of reconstruction of the Donjon in wood, just as in the original structure,
which I really appreciate.