2018年11月25日日曜日

日弁連研修「会社法と税法~役員報酬について~」、秋の比叡山を訪ねて


1. 日弁連実務研修「会社法と税法~役員報酬について~」

 今月初旬、残波事件で有名な山下清兵衛弁護士による「会社法と税法~役員報酬について~」と題した日弁連ライブ実務研修がありました(同研修は、東京で行われたものですが、愛知県弁護士会にもライブ配信されるため、名古屋で受講できます。)
 残波事件については、このブログでも軽くとりあげたことがあります。
http://hisaya-avenue.blogspot.com/2016/04/blog-post.html
http://hisaya-avenue.blogspot.com/2014/11/blog-post.html
 山本清兵衛弁護士のお話をうかがうのは初めてではありませんが、今回は、弁護士会の研修において、弁護士に向けて、法人税法34についての強烈なメッセージを発しておられました。それは…
・同条は、「天下の悪法」である
・役員報酬の決定は私的自治の範囲にあり、課税庁は虚偽給与だけを否認すればよいはずである
・同条2項「不相当に高額な」というのは課税要件であるのに、政令に包括委任しているようにみえるが、これについて、憲法違反としている租税法学者は一人もいない
・同条1項各号の定める例外は、使い勝手が悪い。折角、予想外の収益をあげることができても、役員が多めのボーナスをとることができない。日本の会社経営者のやる気をそぐ
などなどです。
 また、第二残波事件とよばれる事案(訴訟までいたることなく満額是認通知をもらったそうです。)や、東地判平成291013日についても、触れられていました。
 賛否はともかく、折角、興味深い研修なのに、研修が終了した際に、会場をみまわしたところ、なんと受講者は私一人しか残っていませんでした。残念です。

2.(1) 先日、愛知県の文化財の会で、比叡山延暦寺と日吉大社をたずねました。

(2)  比叡山延暦寺では、国宝の根本中堂と重要文化財の廻廊について、平成28年度から10年をかけて実施される保存修理事業の最中です。
 現在の根本中堂と廻廊は、かの有名な織田信長の焼き討ちの後、天海大僧正(慈眼大師)が江戸幕府第3代将軍徳川家光公に再建を進言し、寛永19年(1642年)に完成したもの。前回の大規模保存修理は、昭和29年に行われたそうですから、今から約60年前。屋根の全面葺き替え(根本中堂は銅板葺き、廻廊はとち葺き)や、柱・床組み等の塗り替え、保存修理が行われます。
 廻廊の屋根に用いられているとち葺きでは、厚さ
2.4cm、長さ30cmの板が少しずらして葺かれているのですが、「とち」ではなく、「サワラ」が使用されているそうです。
廻廊のとち葺き。
近くで見ると痛んでいるのがわかります。

上からみた廻廊。
普段ではみられないアングルですね。

 銅板葺きが用いられている根本中堂の屋根には、なんと、
14,000枚もの銅板が使用されているそうです。再建当初は、とち葺きだったとのことで、約100年後の葺き替え時でさえ、とち葺きの材料を調達するのは難しかったのかもしれません。見学者の一人がどのくらいの年数で緑青が生ずるのかと質問すると、「最近の銅は緑青が生じにくい」との意外な回答がありました。

根本中堂の銅板葺き。
はがれそうになっている箇所があります。

 塗装については、「丹塗(たんぬり)」と「ちゃん塗」の違いの説明があり、簡単にいうと、前者は水性、後者は油性で、雨露がかかるところは後者になっているようです。

丹塗りの部分。

ちゃん塗りの部分。
金具を外したところで元の色がわかります。

 修理事業の様子は、根本中堂の周りに設置された修学ステージから見学することができます。修理中、外観をみられないのは残念ですが、修学ステージは6階まであり、屋根を真横からみることができますので、一見の価値があると思います。
根本中堂の外観。
紅葉がきれいでした。

 根本中堂の中には、ご本尊の薬師瑠璃光如来(秘仏)、その宝前には「不滅の法灯」があります。ご案内いただいた僧侶のお話では、「延暦寺でなにか一つあげるとすれば不滅の法灯とおこたえしています。」とのこと。天台宗を開かれた伝教大師最澄の「一隅(いちぐう)を照らす」にも通じ、約1200年前から消えていないことが大事なのではなく、光を照らし続けていることに意味があるとおっしゃいます。
 延暦寺にお参りするのは、3度目です。最初は、小学生の頃の家族旅行で、比叡山国際観光ホテル(今はないようです。)に宿泊し、夜景がとてもきれいだった記憶です。2度目は、中学生の修学旅行。なので、落ち着いてお参りしたのは、今回が初めてだといえます。
 伝教大師最澄と弘法大師空海。平安仏教の両巨頭です。両者は、同じ頃、遣唐使の一員として唐に渡り、帰国後、しばらくは親交があったもののその後それは絶たれたといいます。空海については、国宝展でその書を目にしたり、あるいは、今年、偶々、夢枕獏さんの「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」を読んで、空海がどのように唐に渡り密教を学んだのかについて思いを馳せたりと、見聞きすることは多いです。また、以前、高野山の宿坊に泊まり、感銘を受けたことがあります。最澄については、学校で学んだ以上の知識はありません。もっと知りたいなと素直に思いました。
 

(3) 日吉大社は、全国3800余の日吉、日枝、山王神社の総本宮であり、今年、西本宮鎮座1350年を迎えるとのことです。
 宮司さんによれば、元々、神代より比叡山(八王子山)にいらっしゃる大山昨神(おおやまくいのかみ)を麓にお迎えして創祀されたそうですが、天智天皇が飛鳥から近江大津宮へ遷都した翌年である天智天皇7年(668年)に大和王朝の守護神であった大己貴神(おおなむちのかみ。大国主神の別名もある国造りの神様。)を大和国三輪山より勧請して西本宮にお祀りすることになったため、大山昨神(おおやまくいのかみ)は東本宮にてお祀りすることになったとのこと。当時の中央政権の神様をおよびしたからには、それに従うことになった地方政権は、お山がバックとなる麓のよい場所を譲らねばならなかったということでしょうか。
 日吉大社で祀られている神様は日吉大神と総称されるそうですが、伝教大師最澄が比叡山に延暦寺を建立した後は天台宗の護法神として崇敬されたそうで、中国の天台山の神様に因んで、山王権現とも呼ばれるそうです。日吉大社は、やはり織田信長の焼き討ちで灰燼に帰しましたが、日吉造で再建された西本宮本殿、東本宮本殿は、ともに、国宝に指定されています。日吉造(ひえづくり、聖帝造り(しょうたいづくり)ともいう。)とは、三間・二間の身舎(もや)の前面、両側面の三方に廂がめぐらされた形をしており、全国でも日吉大社にのみ現存する様式だそうです。また、神仏混交であったため、床下には下殿(げでん)と呼ばれるスペースがあり、それぞれ、釈迦如来などのご本尊が祀られていたというのも注目すべき点でしょうか。西本宮で正式参拝した後、下殿にいれていただきましたが、明治以降の神仏分離により、現在では、神式の祭壇となっていました。

日吉大社の西本宮。
柿がなっていました。
「神猿(まさる)」が好んで食べることから
「猿柿」とよばれているそうです。

宮司さんがいらっしゃるところに
下段への入口があります。
勿論、勝手には入れません。
今回はいけませんでしたが
山の中腹には、日吉大社の奥宮が
みえています。