2020年10月26日月曜日

法的三段論法と違憲の主張、法人税法34条2項「不相当に高額」とその委任を受けた令70条

1. 10月もあと数日。秋が深まってきました。
 ヨーロッパでは第2波が深刻なようです。日本では、これから冬を迎えますが、どうなっていくのでしょうか。いずれにしても、スッキリとした終息の見通しは、たたないと言わざるを得ません。今年に入ってから大きく価値観がかわり、すべてではないにせよ、それが定着していくように思われます。
 マスクをしていなくても気兼ねしなくてすむような日は、果たして、くるのでしょうか。

事務所近くの久屋大通公園がリニューアルして
芝生になりました。


芝生でくつろぐにはよい季節で
夜もきれいです。


 

2.法的三段論法と違憲の主張 

(1)  最近、なかなかブログを更新できていませんが、常日頃考えていることの一つを、アップしてみます。

(2) 大学院で教えていて気付いたことの一つに、法的三段論法を意識するというのがあります。
 これは、自ら振り返ると、あまり教えられた記憶がありません。もしかしたら、法学を勉強していると、自然と身につく側面があるのかもしれませんね。 

(3)  判決文を読むときでいえば、規範定立部分とあてはめ部分を意識することが大切です(木山泰嗣先生の『税務案例がよめるようになる』にもそのような記載があります。)。法的三段論法では、事実に法規範(条文)をあてはめて結論を導きます。でも法学の対象となるような事案では、条文をそのまま当該事実にあてはめて結論を得ることが出来ないので、解釈が必要になり、裁判所が規範を定立したりします。この規範を定立している部分が、まずは、重要です。もし、その後、同じような争点で訴訟に発展したとき、この規範により結論が導かれると予想されますからね。

(4)  著名な武富士事件を例にすると…。
 租税判例の多くは、納税者(原告X)が課税処分の取消を求めて争います。課税処分を取消してもらうためには、課税処分が違法であることが必要です。そして、課税処分が課税要件を欠いていると主張立証できれば、当該課税処分は違法であるといえるでしょう。
 武富士事件では、贈与税決定処分等の取消を求めたものです。
 Xは、贈与を受けた当時、香港に赴任していたものの、日本国内の滞在日数もそれなりにありました(香港約65.8%、国内約26.2%です。それだけでなく、この滞在日数は、公認会計士から贈与に関する具体的な提案を受け、租税回避目的で調整した結果でした。)。ところが、当時の相続税法では、受贈者が贈与を受けたときに、国内に「住所」を有することが、課税要件となっていました。そこで、贈与税決定処分等が取消されるか否かは、
Xの「住所」が日本にあるか否かによることとなったわけです。
 Xのように、香港と日本を行き来している者の「住所」は、どのように判断すればよいでしょうか。相続税法の条文は、「住所」と記載するのみで、その定義規定は用意されていませんでした。
 最高裁(平成23218日判決)は、「ここにいう住所とは、反対の解釈をすべき特段の事由はない以上、生活の本拠、すなわち、その者の生活に最も関係の深い一般的生活、全生活の中心を指すものであり、一定の場所がある者の住所であるか否かは、客観的に生活の本拠たる実体を具備しているか否かにより決すべきものと解するのが相当である」と判示しています。このように、最高裁が、「住所」をどのように判断するか述べている部分が、規範を定立しているところです。最高裁が、「『住所』はこのように判断する」といってるのですから、もし、その後、「住所」が争点となる同種事案が生じれば、この規範に基づき、「住所」がどこにあるか判断されるのではないかという予想がたちます(武富士事件のような租税回避事案については、これを封じるための法改正がありましたが…)。
 規範定立部分に続く「これを本件についてみるに、前記事実関係等によれば、…」というところは、この規範に事実をあてはめている部分です。このあてはめ部分も、どういう事実だと、その規範にあてはめてどのような結論がでるのかということがわかりますから、勿論、重要です。

(5)  租税判例では、納税者から違憲の主張がでることもあります。
 例えば、このブログでもとりあげたことのある残波事件(第一審は東地判平成28422日)
 残波事件は、X社が、その役員4名に支給した役員報酬(役員給与)とその代表取締役を退任した者に支給した退職給与について、「不相当に高額な部分の金額」があるとしてなされた本件各更正処分等の取消を求めたものです。
 この事案において、
X社は、「本件各更正処分等は、憲法84条に反するものである」という主張もだしていました。
 前述のように、課税処分を取消してもらうためには、課税処分が違法であることが必要です。この点、もし、その処分に適用された大前提たる条文が憲法に違反していたら、当該条文は原則として無効となりますから、課税処分も違法といえるでしょう。
 私は、違憲の主張は、ゼロの割り算に似てるな…などと思ってしまいます(変ですかね…)。

(6)  ところで、法人税法342項の「不相当に高額」については、私が以前書いた論文「租税訴訟における規範的要件の要件事実 -法人税法1321項の不当性要件を中心に-」で指摘だけした疑問点(「税法学」58284頁脚注7)があります。長くなりますが、以下に、敷衍してみたいと思います。

(7) 残波事件で問題となった法人税法342項は、以下の通り、規定します(太字下線筆者)。

内国法人がその役員に対して支給する給与(…略…)の額のうち不相当に高額な部分の金額として政令で定める金額は、その内国法人の各事業年度の所得の金額の計算上、損金の額に算入しない。


 「不相当に高額」といわれても、当該法人の給与が具体的にいくらを超えるとそうなるか、俄には、わかりませんね。

 「不相当に高額」は、講学上、不確定概念といわれています。

 昨年、私が上記論文で書いた同族会社行為計算否認規定(法人税法1321項)の「不当に」という要件も、不確定概念であるといわれています。
 不確定概念は、憲法84条の租税法律主義から導かれる課税要件明確主義に反しないかが問題となりますが、金子先生は、不確定概念を用いることは、ある程度は不可避であり、また必要であるとしていますね。
 もっとも、法人税法1321項と違って、法人税法342項は、「不相当に高額な部分の金額として政令で定める金額」としているように、「不相当に高額な部分の金額」をどのように判断するかについて、法人税法施行令第70条に委任しています。
 この点、会社法改正に伴う平成18年法人税法改正の前の事案ですが、丸中縫工事件の最高裁(平成9325日判決)は、「法人税法341項の規定の趣旨、目的及び法人税法施行令691号の規定内容に照らせば、法人税法341項所定の『不相当に高額な部分の金額』の概念が、不明確で漠然としているということはできない」と判示しています。
 

(7) それでは、現行の法人税法342項の委任を受けた法人税法施行令第70条はどのように規定しているのでしょうか。
 令70条1号イ(いわゆる実質基準)は以下のように規定します。

(過大な役員給与の額)

70条 法第34条第2項(役員給与の損金不算入)に規定する政令で定める金額は、次に掲げる金額の合計額とする。

一 次に掲げる金額のうちいずれか多い金額

イ 内国法人が各事業年度においてその役員に対して支給した給与(法第342項に規定する給与のうち、退職給与以外のものをいう。以下この号において同じ。)の額(第三号に掲げる金額に相当する金額を除く。)が、当該役員の職務の内容、その内国法人の収益及びその使用人に対する給与の支給の状況、その内国法人と同種の事業を営む法人でその事業規模が類似するものの役員に対する給与の支給の状況等に照らし、当該役員の職務に対する対価として相当であると認められる金額を超える場合におけるその超える部分の金額(その役員の数が二以上である場合には、これらの役員に係る当該超える部分の金額の合計額)

(以下、省略)


このように

法人税法
342項「不相当に高額な部分の金額として政令で定める金額」
   ↓
法人税法施行令第701イ「当該役員の職務に対する対価として相当であると認められる金額を超える場合」

と言い換えられています。

 このように、「不相当に高額な部分の金額」を「相当であると認められる金額を超える」と言い換えて規定したことには疑問が生じないわけでもありません(法人税法施行令第702の「その退職した役員に対する退職給与として相当であると認められる金額を超える場合におけるその超える部分の金額」も同じ議論になります)。
 というのも、「不相当に高額」というのは、「高額」であるだけでは足りず、「不相当に」「高額」である必要があるようにも、思えるからです。これって法律による委任の範囲を超えていないのでしょうか…?
 この点、丸中縫工事件の第一審(名古屋地判平成6615日)は、Xの法人税法341項は憲法84条の課税要件明確主義に反するという主張や合憲限定解釈が必要であるという主張をしりぞけた上で、「令691号に規定される『相当であると認められる金額を超える部分の金額』については、当該役員の職務の内容当該法人の収益及び使用人に対する給料の支給の状況同業種・類似規模の法人の役員報酬の支給の状況等に照らして定まる客観的相当額ある役員の役務の対価として相当と認められる金額は一定額に限られるものではないから、ここにいう額は、その性質上、相当と認められる金額中の最高額を意味することになる。)を超える部分の金額が、これに当たるというべきである」と判示しています。
 このように、相当と認められる金額中の最高額を超える金額は、不相当に高額な部分の金額であると解釈すれば、法律による委任の範囲を超えないでしょうかね…。
 Xの合憲限定解釈の主張は、「法341項の『不相当に高額な部分の金額』は『明白かつ著しく高額な金額』と解釈されるべきである」というものなのですが、「明白かつ著しく」とまではいいませんが、第一審裁判所が判示したように、相当と認められる範囲の最高額を超えると、すぐに、「不相当に高額」となってしまうのでしょうか。ここは日本語の問題、あるいは、社会通念によるのかもしれませんが、正直、疑問なしとはいえないように思います。
 ちなみに、処分行政庁(被告Y)は、「報酬が法人の役員の職務の内容等から見て対価として相当であると認められる金額を超える場合には、その超える部分が高額部分となるのであるが、不相当に高額であるか否かは、右規定に掲げられた諸々の事情等に照せば自ずから明らかとなるべきものである。…具体的には、通達回答方式によって抽出した類似法人の役員報酬支給状況の検討によって相当性の判断の基準となる具体的・客観的数値(平均値)を求めるとともに、当該法人における役員の職務の内容、当該法人の収益の状況及び使用人に対する給料の支給状況という事情の中に当該法人の固有のものとして特別に考慮すべき事情があるか否かを検討して右平均値を増減することによりなずべきである。」と主張していましたが、さすがに、第一審裁判所は、「特別事情がなければ平均値が相当な報酬額の上限であるという判断方法も採用することはできない」と判示していますね。

2020年8月16日日曜日

先例主義と国民性

1. 昨日は、終戦記念日でしたね。
 夜、NHKで、ドラマに続いて放映されたNHKスペシャル「忘れられた戦後補償」を拝見し、色々と考えさせられました。
 日本では、旧軍人、軍属やその遺族には手厚い恩給がありますが、民間被害者の補償はなされてないといいます。ちなみに、同じ第二次大戦の敗戦国であるドイツやイタリアでは、民間被害者も補償の対象であるといいます。民間被害者への補償について、(戦前はそのような法制があったようですが)旧大蔵省や厚生省の担当者が、日本国憲法の保障外にある、国家総動員体制の下受忍すべきであるという趣旨の述懐をしているのに、既視感というか、ひっかかりを覚えました。

2. 今年は、コロナ禍が世を席巻しています。
 政府や自治体からは、様々な要請がなされますが、これらは、法的根拠がないか、あっても、その法的拘束力が明確ではありません。そして、補償についてもまた法的根拠が明確とは言い難いように思われます。

3.(1) 現在夏休みですが、コロナの影響で、私の担当する大学院の前期授業(租税法基礎研究)は、途中からZOOMで行うこととなりました。最初は違和感がありましたが、郷に入っては郷に従えといいましょうか、とりあえずは、慣れるしかない…。

(2)  私は、恥ずかしながら、遙か昔、大学で法学を専攻しはじめた当初、どうにも法学になじめませんでした。そんな私が、大学院で法の基礎を教えるなんて…人生とはわからないものです。
 なぜどうも法学になじめなかったのか…それは、不勉強が一番の理由だと思われます。あとは、社会的経験不足とか…。ただ、思い出すことがあります…。あるとき、先輩が、「論点は条文のスキマだ」といっているのが、妙に、耳に残りました。その後、だんだんと、法学って、(中心は)法解釈なんだと、腹に落ちていくような気がしたのです(苦笑…いつも、変なところで、つかえてしまうのです…汗)。

(3)  時が経ち、司法試験の勉強をはじめ、実務につくと、自然と、法的三段論法にいそしむようになります。すなわち、事実に法規範(条文)をあてはめて結論を導きます。でも、事案によっては、うまくあてはめることができません。これが学部で論点とよばれているところといえるでしょうか…。裁判では、場合によって、自ら規範を定立します。もっとも、日本は、大陸法系であり、判例には事実的拘束力しかないとされています。

(4)  ところで、以前、ローエイシア東京大会2017の基調講演について、このブログでふれたことがあります。谷口安平教授は、アメリカの証拠法の大家であるウイグモア博士が若き日に慶應義塾大学に招聘され、失われゆく江戸時代の紛争解決事情について研究していたという話をされたのですが、その中で、国民性というのは案外かわらないというような趣旨の発言をされていた記憶があります。

(5)  昨年、名古屋大学の神保文夫教授をうかがう機会がありました(ご親切にも、古文書の読解について手ほどきを受けました。)。うかがう前に、『法文化のなかの創造性』(創文社)という本の「幕府法曹と法の創造」を読んでいたところ、ウイグモア博士の話がでてきました。ウイグモア博士は、日本の徳川時代の法の特徴の一つとして、「判例法の発達」ということを指摘し、「それは1400年代以後のイギリスにおける判例法の発展とよく似ている」といっているそうです。孫引きで恐縮ですが、「世界の重要な法系のうち、判例によって法を発展させたのはユダヤ、マホメット、ローマ、イギリス、日本の5つしかない、しかもその中で、法律学者ではなく、official justice、すなわち、官吏たる裁判官によって法が発達したのは、イギリスと日本だけであって、これは非常に興味深いことである」と述べていたというのです。ちょっと、びっくりしないでしょうか。江戸時代の法や裁判というと、ドラマの影響もあり、大岡裁きなどが思い浮かびます。しかし、実は、行政的先例などを非常に詳細に調査、比較衡量し、「妥当と考えられる結論を機能的に導くことによって、法的安定性・公平性を維持するとともに、必要に応じてそれを修正しつつ、新たな規範を形成していった」というのです。
 神保教授は、「明治になって、日本は西洋の近代法を継受することになりますが、こういった江戸時代における法実務ないし実務法学の発達という素地があったからこそ、急速に取り入れた近代法をともかくも受け入れ、対応することが可能であったと思います。」としています。
 そして、「フランス法やドイツ法といった成文法主義、法典主義を基本とする大陸法系の西洋近代法を日本は継受しわけですけれども、それにもかかわらず実務の運用においては判例が英米法以上に重視されているというのが本当であるとするならば、それにはもちろんさまざまな要因や背景があることだろうとは思いますが、先例を覆すことは容易にはできない、あるいは先例に従っていれば安心だというような意識がもしあるとすれば、これはひょっとすると江戸時代以来のわが国の法実務の伝統というといえるのかも知れません。」と締めくくっておられます。「判例は実務を支配する」というのは、よくいわれることですが、実務に身をおくと、確かに、強く実感するところです。

(6) 国民性というのは、時代を経ても、案外かわらないのかもしれません(当然と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが…)。


2020年6月3日水曜日

利得消滅の抗弁



1. 緊急事態宣言が全国的に解除されたのも束の間、昨日、東京アラートが発動し、コロナ禍の行方はまだまだ余談を許さなさそうです。
 
2. ところで、先日、大阪府摂津市が府民税1502万円を過大に還付してしまい、返還を求めたものの、還付を受けた男性の代理人弁護士が「請求された時点で使い切っており、法律上、返還義務はない」と主張しているという報道を目にしました。
 実は、私も組織内で働いた後、似たような状況?に陥ったことが…。
 退職後、元職場の人事課の方が訪ねてこられ、「申し訳ありません。給与を払いすぎていました。返還してください。」といわれたのです…。
 私の場合、入るときに契約書をとりかわしたわけではないので、給与が少しずつ多く支払われていたことに全く気がつきませんでした。しかし、塵も積もれば…で、賞与を含む在職期間を通じての誤りだったため、総額としては、馬鹿にならない金額になりまして…(汗…府民税とは桁が違いますが…)。私の頭の中では、(人事課の方と話を続けつつも)司法試験時代の不当利得の論点などがぐるぐるとまわりはじめ…。以下、内心の声…。
(はあ?給与を払いすぎた~?もう使っちゃったよう~。これって、返還しなければならないの?確か、有名な不当利得の論点があったはず…。ええと…善意の場合は、生活費として費消しちゃうと返還しなければならないけど、浪費した場合は返還しなくてよかったはず…変な結論なんだよね…。しかし、浪費ったって、どんな場合?どうしよう…。どうしよう…。多額すぎる…涙)
 人事課の方は大変丁寧に謝られた上で、「一度に返還するのは大変でしょうから、分割でいかがでしょうか。ご都合のよろしいときを第一回にしていただいて構いません。」などといいます。
 とりあえず、私は、「考えさせてください。」と返答し、人事課の方にお帰りいただいた後で、早速、注釈民法で調べてみました。私が思い出した論点は、「利得消滅の抗弁」とよばれています。民法703条は、「その利益の存する限度において、これを返還する義務を負う」と規定しています。そのため、受益者が善意の場合、現存利益の範囲内で利得の返還義務が発生するように読めます。しかし、本来法律上の原因のない利得は全部返還するべきものを減縮しているから不当利得返還請求権の消滅は抗弁事由(利得消滅の抗弁)であるとされます。前述の受験時代に覚えたことも一応書いてありました。金銭を利得した場合、生活費等の必要な使途に消費したとしても、それにより自己の財産の出費を免れているから利益は現存しており、そのような事実を主張すること自体失当であると…。ところが!!!!!「結局のところ、特に金銭の利得について利得消滅の抗弁が認められる場合は実務上ほとんどないように思われる。」との結論…。
(おかしいじゃん。なんで?間違えた方が悪いじゃん。給与としてもらったら使っちゃうよう。勘弁してよう…「間違えた」ですむなら、ケーサツならぬ裁判所はいらないじゃないか!さりとて、返還を拒否するには、法的根拠が心許ない。だいいち、元職場と波風をたてるのは好まない。しかし、腹が立つ。モーレツに腹が立つ!くやしい~!)
 次にコンタクトがあるまで、悶々とした日々を送りましたが、結局、悔しさと恥ずかしさに蓋をして、3回払いにしてもらいました…涙。
 この話を同期にしたところ、爆笑され、「しらばらく思い出して笑える。」と感謝?されました。しかし、私は、しばらく思い出しては、ぶつけるところのない悔しさに苛まれたのでした…。確かに、誤って多く支払われた給与は、法律上の原因なく他人の財産によって得た利益ではあります。ですが、こういう話は、その立場になってみると湧き上がる感情もありまして…。

 なお、最判平成8426日は、「振込依頼人から受取人の銀行の普通預金口座に振込みがあったときは、振込依頼人と受取人との間に振込みの原因となる法律関係が存在するか否かにかかわらず、受取人と銀行との間に振込金額相当の普通預金契約が成立し、受取人が銀行に対して右金額相当の普通預金債権を取得するものと解するのが相当である。」と判示しています。つまり、誤振込があった場合、銀行と受取人との間には、預金契約が有効に成立するのです。その結果、払戻に応じた銀行は、法的責任を問われません。勿論、振込依頼人と受取人との間には、不当利得の問題が生じます。また、振込依頼人から誤振込であるとの申し出があれば、受取人の同意を得て組戻しをするという銀行実務はあるようです。
 更に、大阪高判平成10318日(上告棄却で確定)は、「誤振込による入金の払戻をしても、銀行との間では有効な払戻となり、民事上は、そこには何ら問題は生じない(後は、振込依頼人との間で不当利得返還の問題が残るだけである。)のであるが、刑法上の問題は別である。…誤振込の存在を秘して入金の払戻を行うことは詐欺罪の『欺罔行為』に、また銀行側のこの点の錯誤は同罪の『錯誤』に該当するというべきである」としているので、多額の誤振込みがあれば、それとわかるでしょうから、払戻には注意が必要です。

2020年5月5日火曜日

ステイホーム週間


1. GWならぬステイホーム週間もあと1日。
 緊急事態宣言の延長が決まり、不安や不満が世の中に溢れているように感じます。
 今年が明けた頃には、よもやこんな日々が来るとは想像だにできませんでした。果たしていつ収束するのか、そして、コロナ後は…?パンドラの箱に最後に残ったのは、予知力だとの解釈がありますが、待ち受ける未来を知っても、前を向いて歩いて行ける未来が待っているのでしょうか…。

2. 心配は尽きませんが、話題をかえて…。
 折角、まとまった時間を家で過ごすのですから、目標をたててみました。
  ①ピアノのレパートリーを一曲増やす
  ②ベランダと物置になっている自室を片付ける
  ③租税論文など時間がかかる読書にいそしむ
 あれれ…③は本業の一部でしょうか?
哲学書でもいいかな…。亡き父の蔵書で気になっているのがあります。
 しかし、最近、知的活動が停滞している気がします。人生の折り返し地点は過ぎているし、ここは、自分に発破をかけて、楽しみつつ、老いに抗うことも必要かなと思う今日この頃。と思って、③も入れておきます。
 ①は、ステイホーム週間に入ってからすぐにはじめて、既に譜読みは終え、75%くらい達成しています。ピアノに触るのは久しぶり…。譜読みの能力は、驚くほど衰えていますが、めげません。昔から、試験期間になると、ピアノが弾きたくなるんですよね。比較の問題で、②や③より、ずっと楽。
 ②は、枯れた木を処分して、鉢をまとめて、雑草を抜いて、種蒔きするなど、ベランダの掃除はおえました。問題は、自室の片付け。
 以前、孤独死された方の相続財産管理人を引き受けた際、その自室に考えさせられました。綺麗好きな方は大丈夫なのでしょうが、私は、恐らく、家人がおらず、社会との接触がなければ、同じようなことになるのではないかと…。家事の中で、一番嫌いなのが掃除です(きっぱり!)。まだ、0%の達成率ですが、明日、頑張ります(汗)。
 ②が中途なので、③には手をつけていません…(苦笑)。
しかし、こちらは、ステイホーム週間が終わっても取り組んで、ブログに報告したいな…などと思っています(宣言しておけばやるのでは…)。
 

2020年3月18日水曜日

社史の出版


1. 新型コロナは、なかなか先行きがみえませんね。
影響がじわりじわりと多方面に広がっており、なんとか早い収束を願うばかりです。

2. ところで、昨年春から畑違いの分野に取り組んでいたものが、やっと、刷り上がりました(東京図書出版からの自費出版、非売品)。
 タイトルは、『服部産業株式会社とその前身橘町板屋の300年の歩み 板屋與三治や服部小十郎の足跡を求めて』です。
 ざっくりいうと、服部産業株式会社の社史となります。
 服部産業株式会社の前身は、橘町(中区橘)にあった「板屋」という木材商であり、明治に入って、現在の本店所在地がある下堀川町(中区松原)に移転しました。江戸末期の「いろは本組」には含まれませんが、名番頭與助(与助)の功績により、幕末には御勝手御用達格となっています。しかし、戦災による焼失等もあり、橘町板屋時代を含む資料の収集には、本当に苦労しました。
 調べてみると、『青窓紀聞』『鶏肋集』『金明録~猿猴庵日記』『松濤棹筆』『葎の滴』『古袖町勾欄記』等に、橘町板屋や板屋與三治の記事がみつかりました。これらは、ほとんどが、ぱらぱらと名古屋叢書や名古屋市図書館の「なごやコレクション」で頁を繰っていて、偶然みつけたもので、スキャンして検索をかけたわけではないので、ちょっとした言及は、まだまだあるのではないかと歯痒い思いをしています。
 他方で、インターネット検索でみつかった資料も結構ありました。全国の旧家、大学、研究機関等に保有されているくずし字の文献がデジタル化されれば、もっと、解明がすすむのではないかと期待されます。くずし字を読むソフトが開発されているとも聞きますから、あと10年もすると、資料が爆発的に増えてくる可能性も否定できないのかなと思ったりしています。
 とはいえ、あちらこちらに散らばっている資料を有機的に結びつけるのは、少々、根気を要しますね…。また、紙に落とし込まれていない人々の記憶というのは、本当に貴重です。多くの方にご助力いただいたことに感謝するとともに、あと10年早く今回の調査をしていれば…と思うことが、度々ありました。
 今回の調査をしていて、方丈記の有名な冒頭部分、「玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。…住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。」を何度も思い出しました。少なくとも、明治時代までは橘町に板屋があったことは確かですが、これを記憶している人は皆無でしょう(新家(しんや)とよばれる分家は戦前の昭和まで橘町におりましたので、これを記憶していらっしゃる方はおられました。)。
 橘町板屋の正確な所在を示した文献も見当たりませんでした。名古屋城下町復元プロジェクトでも、橘町と記しているのみ…。この点については、今回の調査の結果、明治半ばの「橘町2丁目7番」が江戸時代の橘町板屋の所在でもあると考えています(詳しくは、拙著に記してあります。)。
 橘町板屋では、現在初代と考えられている板屋與三治から5代までは「與三治(与三治)」を称していた(*)のに、6代、7代と、服部(板屋)小十郎と称していることも、資料が集まりにくい遠因となっているでしょうか。なお、詳細は不明ですが、「小十郎」は、江戸時代から使われており、「與三治」に因むと考えられるカタカナの「ヨ」を丸で囲んだ標章も、「小十郎」に因むと考えられる「板小」という屋号も、江戸時代から用いられているようです。
*與三次(与三次)、與惣治(与惣治)など、漢字にはバリエーションがります。また、4代は、與兵衛(与兵衛、誉兵衛)とする複数の資料があります。


 また、明治に入ってから、量器(升、枡)の製造部門は、「服部量器製作所」と称して、恵比寿大黒の登録商標を付した一斗升(圓壔形)、一合升(方形)等を、全国に移出していたようです。

 今回は、比較的短期間でまとめたので、脱稿後、新たな発見や間違いが続き、忸怩たる思いもしましたが、とりあえず、世に出し、また、情報を集めていくことにも意義があるのではないかと、自ら慰めている今日この頃です。その観点から、資料提供先である図書館等のほか、なるべく、大学図書館に寄贈したいなと思っています。


『服部産業株式会社とその前身橘町板屋の300年の歩み
板屋與三治や服部小十郎の足跡を求めて』
のカバー絵

2020年2月25日火曜日

アウシュビッツ解放75周年


1. 世間では新型コロナなど深刻な話題が続いていますが、今日、二葉館前の早咲きの桜が、もうほころんでいました。確実に春は近付いているんですね。
 個人的には、週末に、大学院で指導するゼミ生の口試が終わり、ほっとしています。
 
今日の二葉館

二葉館(二葉御殿)は、
私が名古屋に来た頃は
白壁三丁目(東二葉町)にありました

2. 先月27日、第二次大戦中のナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を象徴するアウシュビッツ強制収容所が解放されて75年を迎えるという記事を目にしました。
 私は、大学を卒業する春休みに、1人で、東ヨーロッパを旅したことがあります。そのとき、クラクフ(Kraków)から足をのばして、アウシュビッツをたずねました。アウシュビッツをたずねたのは、『夜と霧』を読んだ影響があると思います。『夜と霧』は、これまで感銘をうけたベストテンに入る本です。最初に同書を目にしたのは、同書に掲載されている写真を友人に見せられたときで、小学生だったか、中学生だったか、覚えていないのですが、学校の図書館であったことははっきりと覚えています。通読したのは、高校生か大学生の頃で、最初の出会いからの想像とは異なり、色々と、深く考えさせられる内容でした。強制収容所という極限状態における体験を心理学者である筆者が綴っています。特に、印象に残っている一つは、テヘランにおける死の話です。収容所では、単に生命を維持するということに意識を集中せざるを得ず、日々の過酷な状況に心を動かすことがなくなり、深刻な無感覚は決断を怖れさせるといいます。しかし、筆者は、いくつかの分かれ道で、あるときは、意識的に、あるときは、偶然に、命に至る道を選択することになるのです。なんとかして、命に至る道を選択しようとしたわけではないのに…。たとえば、筆者が医師として病囚収容所へいくことを選んだとき、本当にそうなのか、あるいは「ガスにいく」のか、わからなかった。もう一つは、収容所の囚人代表は収容所の親衛隊員を全部あわせたよりももっと厳しく、他方、収容所の当局者の中には道徳的な意味でサボタージュする者があり、人間の善意はあらゆるグループの人間において発見しうるという指摘です。収容所では、1944年のクリスマスと1945年の新年との間に、大量の死者がでたそうですが、それは、過酷な労働条件、悪天候、伝染疾患等にさらされながら囚人の多数がクリスマスには家に帰れるという素朴な希望に身を委せていた結果だといいます。いつ収容所をでられるかわからず極限状態が続く…その中で、人間の尊厳をたもつことは、非常に難しいのかもしれません。他方、収容所の当局者にあって、道徳的なサボタージュをするのも容易とは思えません。かつて外交官の知り合いが、杉原千畝氏について、当時としては単なる服務違反だという趣旨の発言をしたことが思い出されます。
 久しぶりに東ヨーロッパ旅行のアルバムを繰ったところ、アウシュビッツの写真は一枚もありませんでした。よく覚えていませんが、おなじ人間がこんなことをできるという事実をみせつけられ、そんな余裕がないほど、打ちのめされていたのかもしれません。 




クラクフの中央広場とヴァヴェル城
 

2020年1月1日水曜日

恭賀新年


1. 令和2年(2020年)が明けました。
 今年は、いよいよ、オリンピックイヤーですね。
 本年もよろしくお願いいたします。

 

2. 今年は、ねずみ年。
 名古屋で、ねずみにちなんだ寺社をネットで調べたところ、あまりないようで…。
 久国寺が近かったので、初詣でにいってまいりました。
 良い年となりますように。



(参拝客からは、「ねずみに因んだものはないね」との声もチラホラ…)