2017年2月13日月曜日

節税養子に関する最判平成29年1月31日The Supreme Court’s decision dated January 31, 2017 regarding ‘Tax-avoidance adoption”、長篠城址・田原城跡 The sites of "Nagashino Castle" and “Tahara Castle”


1.「節税養子」に関する最判平成29131
The Supreme Court’s decision dated January 31, 2017 regarding ‘Tax-avoidance adoption”

(1) 養子制度について、日本では、欧米と比較して、子の福祉のために使われることは少なく、多様な目的に使われているといわれます(内田『民法Ⅳ』)。そのうちの一つが“節税養子”(“相続税養子”)でしょう。
 特に、いわゆる“孫養子”は、直系卑属を養子とするため家裁の許可不要であり(民法798条但書)、また、昭和63年度税制改正(*)等もありましたが、なお、相続税の節税効果が期待され、富裕層の間では孫養子が利用されることも、そう珍しいことではないように思います

*昭和60年前後から、相続税の節税目的で、近親者を養子とする例が頻発したため、昭和63年度に次のような改正がありました。

①実子相続人がいる場合には、被相続人の養子のうち一人のみを法定相続人の数に含める(相続税法1521号・3項)

②実子相続人がいない場合には、被相続人の養子のうち二人までのみを法定相続人の数に含める(同条項2号)

③①および②のいずれの場合でも、「相続税の負担を不当に減少させる結果となると認められる場合においては」、税務署長は、養子の数を法定相続人の数に含めないで計算できる(相続税法63

**相続人が被相続人の一親等の血族(代襲相続人となった直系卑属を含む)および配偶者以外の者である場合、相続税額は20%加算されます(相続税法181項)が、平成15年度改正により、養子となった孫もこれに含まれます(同条2項)。
 
***なお、相続税の基礎控除額等に係る平成25年度改正については、以前、事務所通信でとりあげたことがありますので、こちら(↓)をご覧ください。
http://www.hisaya-ave.com/tsushin3p7.html

  http://www.hisaya-ave.com/tsushin3p8.html 

(2) 民法は、「人違いその他の事由によって当事者間に縁組をする意思がないとき」は、養子縁組を無効としている(民法8021)ところ、節税対策孫養子について、「縁組をする意思を欠く」ことから養子縁組は「無効である」と主張してその確認を求めた訴訟の最高裁の判決(最判平成29131日)がでました。
判決文はこちら(↓)
http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/480/086480_hanrei.pdf 

(3)  最高裁の判決によると、原審である東京高裁が認定した事実は、次のとおり。
 亡くなったおじいさんAは、自宅を訪れた税理士等から、長男Bとその妻Cとの間に平成23年に出生した孫であるYを養子とすると、基礎控除額が増えることなどによる節税効果がある旨の説明をうけて、平成24年に養子縁組届を提出しました(届には、養子となるYは未成年のためその親権者である両親BC、養親となるA、および、Aの弟夫婦が証人として、署名押印)。この養子縁組について、Aの長女X1、次女X2が無効を主張しました。
 原審である東京高裁は、「専ら相続税の節税のためになされたもの」としたうえで、「縁組をする意思がないとき」にあたるとし、X1X2の無効確認請求を認容しました。
 これに対し、最高裁は、「相続税の節税の動機縁組をする意思とは、併存し得るものである。」とし、「専ら相続税の節税のために養子縁組をする場合であっても、直ちに当該養子縁組について民法
8021号にいう『当事者間に縁組をする意思がないとき』にあたるとすることはできない。」と判示しました。
 その上で、本件養子縁組について、「縁組をする意思がないことをうかがわせる事情はなく、『当事者間に縁組をする意思がないとき』にあたるとすることはできない」との結論をくだしています(X1X2の無効確認請求を認容した原審(東京高裁)の判決を破棄)。
 既に述べたように、節税対策の孫養子は、そう珍しい話ではないと思われるので、最高裁の結論に、胸をなでおろした方も多いのでは…。
 ただし、「専ら相続税の節税のために養子縁組をする場合」でも、「直ちに」縁組をする意思がないといえないとしているだけで、「縁組をする意思がないことをうかがわせる事情」があれば結論が違ってくる可能性は残しています。また、前述のように、相続税法63条は、「第15条第2項各号に掲げる場合において当該各号に定める養子の数を同項の相続人の数に算入することが、相続税の負担を不当に減少させる結果となると認められる場合においては、税務署長は、相続税についての更正又は決定に際し、税務署長の認めるところにより、当該養子の数を当該相続人の数に算入しないで相続税の課税価格(…)及び相続税額を計算することができる」と規定しているのには、留意が必要です。
 
In Japan, it is not rare for a person of wealth to adopt one’s grandchild in order to reduce inheritance tax, because under the Inheritance Tax Act, the basic deduction from the taxable assets increases as the number of legal heirs. The Supreme Court on January 31, 2017 decided that the motivation for Tax Avoidance could be compatible with the intention of the adoption, and will not automatically annul the adoption.

2.長篠城址、田原城跡
   The sites of "Nagashino Castle" and “Tahara Castle”

(1) 先日、桶狭間の戦いに関連する史跡巡りについて、このブログでふれました。本日は、ちょっと前に訪れた長篠の合戦で有名な長篠城址等の散策について、ご紹介を…。

(2) 長篠城址は、新城市にあり、本丸の土塁や堀が残っているほか、史跡保存館があります。
 天正
3年(1575)におきた長篠の合戦は、武田の騎馬隊に対し、鉄砲隊を擁する信長軍が馬防柵を用いたことで夙に有名であり、歴史の教科書にもその場面を描いた合戦図がのっていたように思います。
 このように長篠の戦いというと野戦が真っ先に思い浮かびますが、史跡保存館をたずねると、長篠城を武田勝頼軍が包囲したことによる攻防戦からはじまった等の経緯が史跡と共に紹介されています。
 長篠の合戦に先立つ1573年、京都を目指した武田信玄は病気のため甲州へ引き返す帰途に死去、その死は当初伏せられていましたが、すぐに信玄死すとのうわさが広まり、同年、徳川家康が長篠城を占領しました。ちなみに、長篠城は、元々、1508年に今川義元の将、菅沼元成が築いたそうで、1571年より武田氏に属していたようです。
 武田信玄は「3年間は戦をやめて国力充実につとめよ。」と言い残しましたが、武田勝頼はこのいいつけを守らず、1575年、15千の兵をもって長篠城を包囲。長篠城主となっていた徳川家康の家臣、奥平貞昌は、500の兵と共に籠城し、織田信長・徳川家康の連合軍が到着するまでの約10日間、長篠城を守りきったそうです。
 信長・家康の連合軍は到着すると設楽原に陣を築いたため、武田軍は長篠城の囲みをといて設楽原に進出、壮絶な戦いとなります。武田軍はこの野戦(設楽原決戦)で大敗、重臣を含め約1万もの死傷者をだし、敗走。
 長篠の合戦時、織田信長は42歳、羽柴秀吉は39歳、徳川家康は34歳、武田勝頼は30歳だったといいます。
 織田信長は、長篠の戦いの後、さらに天下人への道を歩んでいきます。

 他方、武田氏の勢力は弱まり、15823月に滅亡。昨年の大河ドラマ「真田丸」では武田氏の凋落や勝頼の悲哀がよく描かれていて、涙を誘いました。
 ところが、奇しくも同年6月、織田信長も本能寺の変にて天下取りの志半ば、この世を去ります。
 このような歴史の舞台となった長篠城は、1576年、廃城となりました。
 かつて、歴史の授業では、桶狭間と長篠の順番・内容を記憶するのに苦労した覚えがありますが、こうやって、実際に訪ねてみると、実感をもって記憶できます(笑)。
   
長篠城址
a stone stela

   
長篠城の本丸跡
a site of Honmaru


長篠城の内堀跡
a moat


(3) 長篠城址を訪れた後、渥美半島まで足をのばし、いちご狩りを楽しみました。また、田原城跡にもまいりました。
 田原城は、渥美半島のほぼ中央に位置し、1480年頃、戸田宗光により築城されました(当時、三河の国の一色氏の勢力下)。
 『愛知の城』(山田柾之著)によれば、戸田氏の最盛期は、宗光の嫡男・憲光の頃。1506今川氏親とともに吉田城を攻略して次男を配し、二連木城には嫡男を配し、大崎・大津・北裏城によって本城を守り、知多半島南半も従来通り領有し、東三河の雄となっていたとのこと。ところが、1547年、松平広忠が今川氏への人質として嫡男竹千代(後の徳川家康)を送ろうとした際、戸田宗光・堯光親子は、竹千代を途中で奪い、尾張の織田信秀に渡してしまいました。このため、今川氏に攻められた田原城は落ち、戸田氏は没落の非運を辿ります。
 その後、田原城の城主は何度か変わり、明治維新の際には三宅氏の居城だったところ、廃藩置県により、本丸殿舎や二の丸櫓といった建築物は解体されてしまいました。

 田原城は、周辺の海が入込み、堀の一部は自然堀だったそうで、巴文に似ていたことから、別名を「巴江城」(はこうじょう)ともいいます。
 土塁や堀などが残っており(石垣は新しい?)、また、敷地内には、田原市博物館もあります。
 
  
田原市博物館
Tahara Municipal Museum


田原城の復元された
二の丸櫓(右)と桜門(左)
Reconstructed
"Ninomaru-yagura (turret)" (right)
and  "Sakura- mon (gate)" (middle)

  
田原城の桜門
"Sakura-mon (gate)"
of Tahara Castle

 
田原城の曲輪等の名称を示した図
a map of Tahara Castle

I visited the sites of Nagashino Castle and Tahara Castle.
A site of Nagashino Castle is located in Shinshiro city, Aichi Prefecture, and well known as a site of the Battle of Nagashino between the allied forces of Nobunaga Oda and Ieyasu Tokugawa against Katsuyori Takeda in 1575.
A site of Tahara Castle is located in the middle of the Atsumi Peninsula.  It was constructed by Munemitsu Toda around 1480, and remained residence of the Miyake clan until the Meiji Restoration.