1. 新型コロナは、なかなか先行きがみえませんね。
影響がじわりじわりと多方面に広がっており、なんとか早い収束を願うばかりです。
影響がじわりじわりと多方面に広がっており、なんとか早い収束を願うばかりです。
2. ところで、昨年春から畑違いの分野に取り組んでいたものが、やっと、刷り上がりました(東京図書出版からの自費出版、非売品)。
タイトルは、『服部産業株式会社とその前身橘町板屋の300年の歩み 板屋與三治や服部小十郎の足跡を求めて』です。
ざっくりいうと、服部産業株式会社の社史となります。
服部産業株式会社の前身は、橘町(中区橘)にあった「板屋」という木材商であり、明治に入って、現在の本店所在地がある下堀川町(中区松原)に移転しました。江戸末期の「いろは本組」には含まれませんが、名番頭與助(与助)の功績により、幕末には御勝手御用達格となっています。しかし、戦災による焼失等もあり、橘町板屋時代を含む資料の収集には、本当に苦労しました。
調べてみると、『青窓紀聞』『鶏肋集』『金明録~猿猴庵日記』『松濤棹筆』『葎の滴』『古袖町勾欄記』等に、橘町板屋や板屋與三治の記事がみつかりました。これらは、ほとんどが、ぱらぱらと名古屋叢書や名古屋市図書館の「なごやコレクション」で頁を繰っていて、偶然みつけたもので、スキャンして検索をかけたわけではないので、ちょっとした言及は、まだまだあるのではないかと歯痒い思いをしています。
他方で、インターネット検索でみつかった資料も結構ありました。全国の旧家、大学、研究機関等に保有されているくずし字の文献がデジタル化されれば、もっと、解明がすすむのではないかと期待されます。くずし字を読むソフトが開発されているとも聞きますから、あと10年もすると、資料が爆発的に増えてくる可能性も否定できないのかなと思ったりしています。
とはいえ、あちらこちらに散らばっている資料を有機的に結びつけるのは、少々、根気を要しますね…。また、紙に落とし込まれていない人々の記憶というのは、本当に貴重です。多くの方にご助力いただいたことに感謝するとともに、あと10年早く今回の調査をしていれば…と思うことが、度々ありました。
今回の調査をしていて、方丈記の有名な冒頭部分、「玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。…住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。」を何度も思い出しました。少なくとも、明治時代までは橘町に板屋があったことは確かですが、これを記憶している人は皆無でしょう(新家(しんや)とよばれる分家は戦前の昭和まで橘町におりましたので、これを記憶していらっしゃる方はおられました。)。
橘町板屋の正確な所在を示した文献も見当たりませんでした。名古屋城下町復元プロジェクトでも、橘町と記しているのみ…。この点については、今回の調査の結果、明治半ばの「橘町2丁目7番」が江戸時代の橘町板屋の所在でもあると考えています(詳しくは、拙著に記してあります。)。
橘町板屋では、現在初代と考えられている板屋與三治から5代までは「與三治(与三治)」を称していた(*)のに、6代、7代と、服部(板屋)小十郎と称していることも、資料が集まりにくい遠因となっているでしょうか。なお、詳細は不明ですが、「小十郎」は、江戸時代から使われており、「與三治」に因むと考えられるカタカナの「ヨ」を丸で囲んだ標章も、「小十郎」に因むと考えられる「板小」という屋号も、江戸時代から用いられているようです。
*與三次(与三次)、與惣治(与惣治)など、漢字にはバリエーションがります。また、4代は、與兵衛(与兵衛、誉兵衛)とする複数の資料があります。
また、明治に入ってから、量器(升、枡)の製造部門は、「服部量器製作所」と称して、恵比寿大黒の登録商標を付した一斗升(圓壔形)、一合升(方形)等を、全国に移出していたようです。
今回は、比較的短期間でまとめたので、脱稿後、新たな発見や間違いが続き、忸怩たる思いもしましたが、とりあえず、世に出し、また、情報を集めていくことにも意義があるのではないかと、自ら慰めている今日この頃です。その観点から、資料提供先である図書館等のほか、なるべく、大学図書館に寄贈したいなと思っています。
タイトルは、『服部産業株式会社とその前身橘町板屋の300年の歩み 板屋與三治や服部小十郎の足跡を求めて』です。
ざっくりいうと、服部産業株式会社の社史となります。
服部産業株式会社の前身は、橘町(中区橘)にあった「板屋」という木材商であり、明治に入って、現在の本店所在地がある下堀川町(中区松原)に移転しました。江戸末期の「いろは本組」には含まれませんが、名番頭與助(与助)の功績により、幕末には御勝手御用達格となっています。しかし、戦災による焼失等もあり、橘町板屋時代を含む資料の収集には、本当に苦労しました。
調べてみると、『青窓紀聞』『鶏肋集』『金明録~猿猴庵日記』『松濤棹筆』『葎の滴』『古袖町勾欄記』等に、橘町板屋や板屋與三治の記事がみつかりました。これらは、ほとんどが、ぱらぱらと名古屋叢書や名古屋市図書館の「なごやコレクション」で頁を繰っていて、偶然みつけたもので、スキャンして検索をかけたわけではないので、ちょっとした言及は、まだまだあるのではないかと歯痒い思いをしています。
他方で、インターネット検索でみつかった資料も結構ありました。全国の旧家、大学、研究機関等に保有されているくずし字の文献がデジタル化されれば、もっと、解明がすすむのではないかと期待されます。くずし字を読むソフトが開発されているとも聞きますから、あと10年もすると、資料が爆発的に増えてくる可能性も否定できないのかなと思ったりしています。
とはいえ、あちらこちらに散らばっている資料を有機的に結びつけるのは、少々、根気を要しますね…。また、紙に落とし込まれていない人々の記憶というのは、本当に貴重です。多くの方にご助力いただいたことに感謝するとともに、あと10年早く今回の調査をしていれば…と思うことが、度々ありました。
今回の調査をしていて、方丈記の有名な冒頭部分、「玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。…住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。」を何度も思い出しました。少なくとも、明治時代までは橘町に板屋があったことは確かですが、これを記憶している人は皆無でしょう(新家(しんや)とよばれる分家は戦前の昭和まで橘町におりましたので、これを記憶していらっしゃる方はおられました。)。
橘町板屋の正確な所在を示した文献も見当たりませんでした。名古屋城下町復元プロジェクトでも、橘町と記しているのみ…。この点については、今回の調査の結果、明治半ばの「橘町2丁目7番」が江戸時代の橘町板屋の所在でもあると考えています(詳しくは、拙著に記してあります。)。
橘町板屋では、現在初代と考えられている板屋與三治から5代までは「與三治(与三治)」を称していた(*)のに、6代、7代と、服部(板屋)小十郎と称していることも、資料が集まりにくい遠因となっているでしょうか。なお、詳細は不明ですが、「小十郎」は、江戸時代から使われており、「與三治」に因むと考えられるカタカナの「ヨ」を丸で囲んだ標章も、「小十郎」に因むと考えられる「板小」という屋号も、江戸時代から用いられているようです。
*與三次(与三次)、與惣治(与惣治)など、漢字にはバリエーションがります。また、4代は、與兵衛(与兵衛、誉兵衛)とする複数の資料があります。
また、明治に入ってから、量器(升、枡)の製造部門は、「服部量器製作所」と称して、恵比寿大黒の登録商標を付した一斗升(圓壔形)、一合升(方形)等を、全国に移出していたようです。
今回は、比較的短期間でまとめたので、脱稿後、新たな発見や間違いが続き、忸怩たる思いもしましたが、とりあえず、世に出し、また、情報を集めていくことにも意義があるのではないかと、自ら慰めている今日この頃です。その観点から、資料提供先である図書館等のほか、なるべく、大学図書館に寄贈したいなと思っています。
『服部産業株式会社とその前身橘町板屋の300年の歩み 板屋與三治や服部小十郎の足跡を求めて』 のカバー絵 |