1.残波事件の第一審判決(東地判平成28年4月22日)について
(1) 以前、このブログで、泡盛「残波」蔵元である酒造会社が、役員4人に支給した報酬計19億4000万円(4年間の基本報酬計12億7000万円と、退職慰労金6億7000万円)のうち6億円について、沖縄国税事務所に「不相当に高額」と判断されたため、その処分を不服として、東京地方裁判所で争っているという事案について触れたことがありました。
http://www.hisaya-avenue.blogspot.jp/2014/11/blog-post.html
沖縄国税事務所は、沖縄県と熊本国税局管内(熊本、大分、宮崎、鹿児島)で、売上が同社の半分~2倍の酒造会社約30社を抽出し(倍半基準)、役員の基本報酬を比較したとのこと。
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沖縄国税事務所は、沖縄県と熊本国税局管内(熊本、大分、宮崎、鹿児島)で、売上が同社の半分~2倍の酒造会社約30社を抽出し(倍半基準)、役員の基本報酬を比較したとのこと。
(2) 先日、毎日新聞のネットニュースで、東京地裁(東地判平成28年4月22日)が、上記約19億円余の役員報酬のうち、創業者に対する約6億7000万円の退職慰労金は「不相当に高額」とはいえないとして、約5000万円分の課税処分を取り消しましたが、給与については30社の最高額よりも高いから「不相当に高額」である等と判示した旨の記事がでていました。
(3) この事案については、かねてより興味のある論点について争われている上、昨年、租税訴訟学会名古屋支部の研修会で、納税者の代理人をつとめられている山下清兵衛弁護士のお話をうかがったことがあり、大変注目していました。
以前のブログでも触れましたが、平成18年5月に会社法が施行される前には取締役の賞与は利益処分とされていたところ、裁判例(名古屋地方裁判所平成6年6月15日判決)は、過大役員報酬不算入制度(「不相当に高額」制度)の趣旨について、隠れた利益処分に対処するためである等としていました。ところが、会社法施行により、取締役の報酬、賞与等は「職務執行の対価として株式会社から受ける財産上の利益」と整理され、会計基準において、賞与も費用として処理されることとなったにもかかわらず、上記制度は存置されたのです。
山下弁護士は、上記研修会において、「役員給与は、利益処分ではなく、費用そのものであるから、職務対価性があれば否認することはできないはず。」とされた上で、法人税法34条2項の趣旨について、「実働のない役員給与は否認しようとするもの」との持論を披露されていました。つまり、同条1項の改正後、「不相当に高額」か否かは、「法人利益への貢献度」(職務対価性)のみで判定されるべきであるとの見解です。
確かに、立法事実が変遷しているのですから、同制度の趣旨も変容してしかるべきとも思われます。ただ、政令レベルにはなりますが、「当該役員の職務の内容、その内国法人の収益及びその使用人に対する給与の支給の状況、その内国法人と同種の事業を営む法人でその事業規模が類似するものの役員に対する給与の支給の状況等に照らし」と、相当性判断の要素(法人税法施行令70条1項イ。退職給与以外の給与に係るいわゆる実質基準)が示されているのをどのように解釈すべきか…。
ちなみに、退職給与についても、「当該役員のその内国法人の業務に従事した期間、その退職の事情、その内国法人と同種の事業を営む法人でその事業規模が類似するものの役員に対する退職給与の支給の状況等に照らし」と、法人税法施行令70条1項によって判断要素が示されています。
以前のブログでも触れましたが、平成18年5月に会社法が施行される前には取締役の賞与は利益処分とされていたところ、裁判例(名古屋地方裁判所平成6年6月15日判決)は、過大役員報酬不算入制度(「不相当に高額」制度)の趣旨について、隠れた利益処分に対処するためである等としていました。ところが、会社法施行により、取締役の報酬、賞与等は「職務執行の対価として株式会社から受ける財産上の利益」と整理され、会計基準において、賞与も費用として処理されることとなったにもかかわらず、上記制度は存置されたのです。
山下弁護士は、上記研修会において、「役員給与は、利益処分ではなく、費用そのものであるから、職務対価性があれば否認することはできないはず。」とされた上で、法人税法34条2項の趣旨について、「実働のない役員給与は否認しようとするもの」との持論を披露されていました。つまり、同条1項の改正後、「不相当に高額」か否かは、「法人利益への貢献度」(職務対価性)のみで判定されるべきであるとの見解です。
確かに、立法事実が変遷しているのですから、同制度の趣旨も変容してしかるべきとも思われます。ただ、政令レベルにはなりますが、「当該役員の職務の内容、その内国法人の収益及びその使用人に対する給与の支給の状況、その内国法人と同種の事業を営む法人でその事業規模が類似するものの役員に対する給与の支給の状況等に照らし」と、相当性判断の要素(法人税法施行令70条1項イ。退職給与以外の給与に係るいわゆる実質基準)が示されているのをどのように解釈すべきか…。
ちなみに、退職給与についても、「当該役員のその内国法人の業務に従事した期間、その退職の事情、その内国法人と同種の事業を営む法人でその事業規模が類似するものの役員に対する退職給与の支給の状況等に照らし」と、法人税法施行令70条1項によって判断要素が示されています。
(4) 事案の性質上、判決文は非開示とのこと。残念です。
The Tokyo District Court in its decision dated April 22, 2016, repealed an order by tax authorities for an Awamori "Zampa" brewing company to pay about 50 million yen in tax. The Court decided that the amount of retirement benefits for a founder executive was not "unreasonably high" as provided for in Article 34, Paragraph 2 of Corporation Tax Act. Under the article, if the executive compensation is "unreasonably high", the portion deemed "unreasonably high" should not be included in the deductible expenses.
The Tokyo District Court in its decision dated April 22, 2016, repealed an order by tax authorities for an Awamori "Zampa" brewing company to pay about 50 million yen in tax. The Court decided that the amount of retirement benefits for a founder executive was not "unreasonably high" as provided for in Article 34, Paragraph 2 of Corporation Tax Act. Under the article, if the executive compensation is "unreasonably high", the portion deemed "unreasonably high" should not be included in the deductible expenses.
2.安土城をたずねて
(1) 滋賀県近江八幡市安土町にある「安土城跡」等をたずねました。
(2)「安土城跡」
安土城は、言わずもがな、織田信長により築城されたお城。「安土桃山時代」と、戦国末期をあらわすエポックの名称(の一部)にもなっています。
信長が安土城の築城に着手したのは、長篠の戦いに勝利した翌年、天正4年(1576年)、その3年後の天正7年に天主が完成し、信長は、岐阜城から安土城に居を移します。そして、わずか3年後の天正10年、本能寺の変により信長がこの世を去り、信長を討った明智光秀も三日天下で秀吉に敗れると、安土城は、何ものかの手により火が放たれ、焼失してしまします。そして、天正12年、小牧長久手の戦いで織田信雄が秀吉に屈すると、安土城は廃城となり、以後は、信長が安土城内に建てた「摠見寺」が、その菩提を弔いながら、現在に至るまで、城跡を守り続けていたといいます(城跡の案内板より)。
「安土城跡」に足を踏み入れると、まず、大手道に圧倒されます。
大手道は、直線部分、横道・七曲状部分、主郭外周路部分と、3つに分かれるそうですが、最初の直線部分は、大手門から山腹まで、約180メートルにわあって直線的に延びる部分の道幅が約6メートルあり、道の両脇には、ひな壇状に、家臣らの屋敷が配されています。
今まで、いくつか城址を訪れたことがありますが、まるで神社かお寺の参道のように、まっすぐで、広くて、長い階段で迎えられたことはなかったように思います。安土山の麓からみると、この立派な大手道が続き、その先には煌びやかな5階建ての天主がそびえ、まさに、「見せる城」だったのでしょう。とはいえ、わずか3年信長の権勢を体現した安土城は、当時、いかほどの人々の目に触れたのでしょうか。でも、安土城を目にしたそう多くはないと思われる人々の中には、宣教師ルイス・フロイスがおり、ヨーロッパにその様を伝えたというのですから、不思議な気がします。
安土城というと、穴太衆による野面積の石垣が有名ですが、その石垣が思ったよりもきれいによく残っているのに驚きました。
大手道をのぼりはじめてすぐ右側に「伝前田利家邸跡」、もう少し上ると、左側に「伝羽柴秀吉邸跡」等と続き、往時の姿に、想像が膨らんでいきます。
黒金門跡を通り、高石垣をめぐりながら、本丸跡(千畳敷と呼ばれる場所で、清涼殿に酷似した建物があったとされます。)に辿り着き、天主跡まで頑張ってのぼると(ここまでのぼるのは、大変でないとは言えない…笑)、約20メートル四方の平地に礎石がきれいに並んでいて、また、びっくり…。天主は、地下1階、地上6階(5層7階建)だったそうで、礎石が見える平地は、地下1階部分、天主台は、約2倍の面積だったといいます。
天主跡から二の丸跡を経て下っていくと、「摠見寺」跡へ。「摠見寺」は、本能寺の変の後の天主炎上による類焼を免れ、江戸時代までは本堂も残っていたそうです(現在は、天主に向かって大手道の右脇に移っています)。「摠見寺」跡は、琵琶湖(西の湖?)がみおろせ、素晴らしい眺めが堪能できるとともに、安土城創建当時の遺構である三重塔、さらに下ると二王門(楼門)にも出会える…。恥ずかしながら、このような遺構があることを知らなかったので、感激してしまいました(笑)。
「安土城城跡」は、現在、「摠見寺」の境内となっていることもあってか、全体的に、手が入りすぎている感がなく(勿論、修復はされているそうです…)、とてもよかったです。
安土城は、言わずもがな、織田信長により築城されたお城。「安土桃山時代」と、戦国末期をあらわすエポックの名称(の一部)にもなっています。
信長が安土城の築城に着手したのは、長篠の戦いに勝利した翌年、天正4年(1576年)、その3年後の天正7年に天主が完成し、信長は、岐阜城から安土城に居を移します。そして、わずか3年後の天正10年、本能寺の変により信長がこの世を去り、信長を討った明智光秀も三日天下で秀吉に敗れると、安土城は、何ものかの手により火が放たれ、焼失してしまします。そして、天正12年、小牧長久手の戦いで織田信雄が秀吉に屈すると、安土城は廃城となり、以後は、信長が安土城内に建てた「摠見寺」が、その菩提を弔いながら、現在に至るまで、城跡を守り続けていたといいます(城跡の案内板より)。
「安土城跡」に足を踏み入れると、まず、大手道に圧倒されます。
大手道は、直線部分、横道・七曲状部分、主郭外周路部分と、3つに分かれるそうですが、最初の直線部分は、大手門から山腹まで、約180メートルにわあって直線的に延びる部分の道幅が約6メートルあり、道の両脇には、ひな壇状に、家臣らの屋敷が配されています。
今まで、いくつか城址を訪れたことがありますが、まるで神社かお寺の参道のように、まっすぐで、広くて、長い階段で迎えられたことはなかったように思います。安土山の麓からみると、この立派な大手道が続き、その先には煌びやかな5階建ての天主がそびえ、まさに、「見せる城」だったのでしょう。とはいえ、わずか3年信長の権勢を体現した安土城は、当時、いかほどの人々の目に触れたのでしょうか。でも、安土城を目にしたそう多くはないと思われる人々の中には、宣教師ルイス・フロイスがおり、ヨーロッパにその様を伝えたというのですから、不思議な気がします。
安土城というと、穴太衆による野面積の石垣が有名ですが、その石垣が思ったよりもきれいによく残っているのに驚きました。
大手道をのぼりはじめてすぐ右側に「伝前田利家邸跡」、もう少し上ると、左側に「伝羽柴秀吉邸跡」等と続き、往時の姿に、想像が膨らんでいきます。
黒金門跡を通り、高石垣をめぐりながら、本丸跡(千畳敷と呼ばれる場所で、清涼殿に酷似した建物があったとされます。)に辿り着き、天主跡まで頑張ってのぼると(ここまでのぼるのは、大変でないとは言えない…笑)、約20メートル四方の平地に礎石がきれいに並んでいて、また、びっくり…。天主は、地下1階、地上6階(5層7階建)だったそうで、礎石が見える平地は、地下1階部分、天主台は、約2倍の面積だったといいます。
天主跡から二の丸跡を経て下っていくと、「摠見寺」跡へ。「摠見寺」は、本能寺の変の後の天主炎上による類焼を免れ、江戸時代までは本堂も残っていたそうです(現在は、天主に向かって大手道の右脇に移っています)。「摠見寺」跡は、琵琶湖(西の湖?)がみおろせ、素晴らしい眺めが堪能できるとともに、安土城創建当時の遺構である三重塔、さらに下ると二王門(楼門)にも出会える…。恥ずかしながら、このような遺構があることを知らなかったので、感激してしまいました(笑)。
「安土城城跡」は、現在、「摠見寺」の境内となっていることもあってか、全体的に、手が入りすぎている感がなく(勿論、修復はされているそうです…)、とてもよかったです。
入山前に出会う 「安土城址」の碑 (a stone stela) |
安土城大手周辺にある 石塁 (the stone forts)。 黒いパラソルの後ろに、 大手道がみえます。 |
大手道 (the stone steps leading to the Tenshu - the Donjon)。 左手が伝秀吉邸跡。 (Left side:the supposed site of the residence of Hideyoshi Hashiba ) |
黒金門跡 (the Kurogane Gate)。 本能寺の変の後の 天主焼失時に激しく燃えたらしく 焼けた金箔瓦などもみつかったとのこと。 |
本丸跡から天主跡へ至る道。 (the stone steps from the Honmaru to the Tenshu - the Donjon) |
天主跡 (the ruins of the Tenshu - the Donjon )。 ここが、地下1階部分らしい。 |
「摠見寺」跡から湖をのぞむ。 (the ruins of the Soken-ji Temple) |
三重塔 (the three storied pagoda) |
二王門(楼門) (the Niou Gate) |
金箔の瓦 (the pieces of the gilt roof tiles) |
(3)「安土城天主信長の館」、「安土城城郭資料館」
「安土城天主信長の館」(Azuchi Castle Museum, "the House of Nobunaga" )は、平成4年に開催されたスペインセビリア万国博覧会のために復元された安土城天主の最上階部分、黄金の5階と八角形の6階が、移設、展示しています。
復元された部分は、安土城における織田信長の居城空間とされ、現代の職人により豪華絢爛に復元されていました。意外に(?)よかったのが、宣教師ルイス・フロイスが安土城を案内される様子を描いたVR(バーチャルリアリティ)のショートムービー(こちらでダイジェスト版がみられます↓)。
VR Azuchi Castle Trailer (↓)http://www.zc.ztv.ne.jp/bungei/nobu/vr/index.html
安土城跡を訪ねた直後にみると、大手道はこんな風だったのか、天主をこんな風にみあげていたのか、天主の中は…、天主最上部からの眺めは…と、先ほど、遺構を歩いた際に思い描いた建物や往来の様子、眺めなどが具体化されて、感激しきりでした…(笑)
「安土城郭資料館」」(Azuchi Castle Museum)には、20分の1のスケールで再現された安土城全体の模型があります。
安土城の低層階は、なんと、地階から地上2階まで中央部分が吹き抜けになっており、3階部分には吹き抜け部分にかかる渡り廊下があったそうで、(異説もあるようです。)、精巧に再現された模型でそういった様子をみられる点は、よかったです。また、約90万円(?)もする甲冑(黒いビロードのマント付き)を体験できるので、お好きな方にはお薦めです。
「安土城天主信長の館」(Azuchi Castle Museum, "the House of Nobunaga" )は、平成4年に開催されたスペインセビリア万国博覧会のために復元された安土城天主の最上階部分、黄金の5階と八角形の6階が、移設、展示しています。
復元された部分は、安土城における織田信長の居城空間とされ、現代の職人により豪華絢爛に復元されていました。意外に(?)よかったのが、宣教師ルイス・フロイスが安土城を案内される様子を描いたVR(バーチャルリアリティ)のショートムービー(こちらでダイジェスト版がみられます↓)。
VR Azuchi Castle Trailer (↓)http://www.zc.ztv.ne.jp/bungei/nobu/vr/index.html
安土城跡を訪ねた直後にみると、大手道はこんな風だったのか、天主をこんな風にみあげていたのか、天主の中は…、天主最上部からの眺めは…と、先ほど、遺構を歩いた際に思い描いた建物や往来の様子、眺めなどが具体化されて、感激しきりでした…(笑)
「安土城郭資料館」」(Azuchi Castle Museum)には、20分の1のスケールで再現された安土城全体の模型があります。
安土城の低層階は、なんと、地階から地上2階まで中央部分が吹き抜けになっており、3階部分には吹き抜け部分にかかる渡り廊下があったそうで、(異説もあるようです。)、精巧に再現された模型でそういった様子をみられる点は、よかったです。また、約90万円(?)もする甲冑(黒いビロードのマント付き)を体験できるので、お好きな方にはお薦めです。
安土城郭資料館 (Azuchi Castle Museum) 安土城の1/20の模型。 (the model of the Donjon of Azuchi Castle - Scale:1/20 ) 吹き抜け部分がよくわかります。 |
(4)ランチ
ちなみに、安土町でのランチは、プティ・キャナル(petit CANAL)でいただきました。
ちなみに、安土町でのランチは、プティ・キャナル(petit CANAL)でいただきました。
プティ・キャナル は 琵琶湖沿いのおしゃれなカフェ。 ハンバーグかパスタに サラダブッフェがついています。 (Cafe petit CANAL is located on the shores of Lake Biwa) |
(5)伊勢安土桃山村の安土城
ところかわって、三重県の伊勢・志摩にある伊勢安土桃山文化村には、なんと、原寸大の安土城があります!
安土城址を訪れる前に遊びに行ったのですが、伊勢安土桃山村の施設の中では、ダントツによかったです(笑)。
伊勢安土桃山村は、平成6年に開業したそうですが、なんと、安土城の総工費は、70億円もしたとのこと!!!
バブルの頃とはいえ、すごすぎます(汗)。
I visited Azuchi Castle Ruins during the Golden Week Holidays.
Azuchi castle was built by Nobunaga Oda from 1596 until 1579 on Mt. Azuchi on the eastern shores of Lake Biwa.
The Donjon of Azuchi Castle, with five layers and seven stories, was considered as the first masterpiece of Japanese architecture introduced to Europe. It contained an open ceiling space, and it's fifth story was octagonal.
However, the Donjon burned down in 1982 just after Nobunaga was attacked and killed by Mitsuhide Akechi at Hono-ji Temple. After that, the Soken-ji Temple has preserved the castle site until today.
The stone walls and steps remain in a rather good condition, and I was especially impressed by the straight and relatively wide stone stairs to the Tenshu (the donjon), which I considered quite rare among Japanese castles.
ところかわって、三重県の伊勢・志摩にある伊勢安土桃山文化村には、なんと、原寸大の安土城があります!
安土城址を訪れる前に遊びに行ったのですが、伊勢安土桃山村の施設の中では、ダントツによかったです(笑)。
伊勢安土桃山村は、平成6年に開業したそうですが、なんと、安土城の総工費は、70億円もしたとのこと!!!
バブルの頃とはいえ、すごすぎます(汗)。
I visited Azuchi Castle Ruins during the Golden Week Holidays.
Azuchi castle was built by Nobunaga Oda from 1596 until 1579 on Mt. Azuchi on the eastern shores of Lake Biwa.
The Donjon of Azuchi Castle, with five layers and seven stories, was considered as the first masterpiece of Japanese architecture introduced to Europe. It contained an open ceiling space, and it's fifth story was octagonal.
However, the Donjon burned down in 1982 just after Nobunaga was attacked and killed by Mitsuhide Akechi at Hono-ji Temple. After that, the Soken-ji Temple has preserved the castle site until today.
The stone walls and steps remain in a rather good condition, and I was especially impressed by the straight and relatively wide stone stairs to the Tenshu (the donjon), which I considered quite rare among Japanese castles.