2016年3月23日水曜日

女性活躍推進法の施行、男女雇用機会均等法と同法施行後間もない頃の銀行時代の思い出


1.女性活躍推進法の施行

(1)  今月いっぱいで終わってしまう朝ドラ「あさが来た」。
 「おなごの大学校」のために奮闘する主人公白岡あさや加野銀行の女子行員に対する当時の社会の風当たり…。大変な時代だったんだなあと思わされます…。
 現在では、女性が学ぶ環境については、随分と改善した感があります(もっとも、例えば、東大学部生の男女比率をみると、まだまだ男子学生の比率が大きいようですが…)
 女性の社会進出全般となるとどうでしょうか。奇しくも、最近、女性の社会進出にまつわる話題が、世間をにぎわせている気がします。「保育園落ちた日本死ね」というママのブログとか、「女性にとって最も大切なことは、こどもを2人以上生むことです。」という中学校長の発言とか…。
 朝ドラの明治時代ほどではありませんが、まだまだ、女性が社会で活躍するには、様々なハードルがあったり、偏見があったりするのでしょうか…。
 そんな中、女性活躍推進法(正式名称は、「女性の職業生活における活躍の推進に関する法律」)の民間事業主に関係する部分が、間もなく、施行されます。

(2) 同法は、「近年、自らの意思によって職業生活を営み、又は営もうとする女性がその個性と能力を十分に発揮して職業生活において活躍すること(以下、『女性の職業生活における活躍』という。)が一層重要となっていることに鑑み、男女共同参画社会基本法の基本理念にのっとり、…女性の職業生活における活躍を迅速かつ重点的に推進し、もって男女の人権が尊重され、かつ、急速な少子高齢化の進展、国民の需要の多様化その他の社会経済情勢の変化に対応できる豊かで活力のある社会を実現する」ため(同法1条)、昨年8月に制定された10年間の時限立法(同法附則2条)です。
 同法は、労働者301人以上の企業に、女性の活躍推進に向けた行動計画の策定等を義務づけている(同法8条参照)のですが、その事業主行動計画の策定に関する部分施行が、平成2841となっているのです。

(3) 労働者301人以上の企業は、自社の女性の活躍状況把握し、課題分析を行った上で、事業主行動計画策定指針に即して行動計画策定し、その旨、都道府県労働局雇用均等室を通じて厚生労働大臣に届け出て社内周知し、公表しなければなりません
 女性の活躍状況の把握においては、①採用者に占める女性比率、②勤務年数の男女差、③労働時間の状況、④管理職に占める女性比率という基礎項目について、把握しなければならず、行動計画には、数値目標等を盛り込まなければなりません。
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 先日の日経新聞の記事(316日朝刊)によれば、対象となる企業は、全国で、15000になるそうです。
 同記事は、日本企業で女性が管理職に占める比率は、11(全産業平均)、欧米は2030、女性の登用が比較的進んでいるというサントリーホールディングでも、102015年末時点)にすぎず、2020年に15まで高める計画等としています。

(4)  ところで、男女共同参画社会基本法が制定、施行されたのは、平成11です。
 同法に基づき、平成22閣議決定された3次男女共同参画基本計画では、2020(平成32年)に指導的地位に女性が占める割合を少なくとも30%程度とする目標に向けた取組みを推進する等と記述されていました。
 昨年(平成27年)12月に閣議決定された4次男女共同参画基本計画では、平成37年度年末までの「基本的な考え方」と平成32年度までを見通した「施策の基本的方向」「具体的な取組」が記述されています。例えば、国家公務員の本省課室長相当職に占める女性の割合3.5(平成277月)について成果目標7(平成32年度末)に、待機児童23, 167(平成277月)について平成29年度末解消をめざす等です。前者については、逆差別だとの男性の恨み節も聞こえてきそうですね。

 

2.男女雇用機会均等法、同法施行間もない頃の銀行時代の思い出

(1)  社会の仕組みも人々の意識も、一朝一夕にはかわりません。
 男女雇用機会均等法施行間もない頃に銀行で勤務した経験がある身としては、約四半世紀たった今日この頃、隔世の感がある部分と、思ったよりも歩みが遅いと思う部分と、混在している気がします。
 「あさが来た」では、女性行員の結婚退職に触れられる場面があります。この辺り、私の銀行員時代にもまだまだ一般的で、あまり変わっていなかったなあという気もします。
 また、当時、女性行員(一般職のみならず、総合職や専門職であっても…)が、男性行員(こちらは、当時、総合職しかいません。)と行内結婚すると、どちらかが退職しなければなりませんでした。明文の規定はなかったと思いますが、結婚相手の男性行員の将来を考えると、女性行員は、退職する途を選ばざるを得なかったのではないでしょうか(上司や人事部に直談判した専門職もいましたが、結局、結婚退職しました)。

(2)  いわゆる男女雇用機会均等法(「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律」。その後、平成9に名称及び内容の改正があり。)が制定されたのは、昭和60年(1985年)です。同法により、企業の募集、採用から定年、退職、解雇に至る雇用管理における男女の均等な機会及び待遇の確保などが規定されることになり、61施行されました。
 つまり、男女雇用均等法施行以前は、男女で賃金体系定年が違ったりしたわけです。
 もっとも、男女別定年制については、同法施行前最判昭56.3.24が「女子の定年年齢を男子より低く定めた部分は、専ら女子であることのみを理由として差別したことに帰着するものであり、性別のみによる不合理な差別を定めたものとして民法90条の規定により無効である」と判示しています。この点、同法64は、男女別定年制を明確に禁止しています。
 男女別賃金体系については、雇用機会均等法制定を受け、コース別人事制度が生まれたといわれます。コース別人事制度についても、東高判平20.1.31は、「基幹的業務定型的・補助的業務と明確かつ截然と区別(二分)することは困難であり,…両者の差異は相対的なものというべきである」「男女の性の違いによって賃金差別するこのような状態を形成,維持した被控訴人の措置は,…雇用関係についての私法秩序に反する違法な行為」である等と判示しています。ただ、コース別人事制度がなくなったわけではなく、厚生労働省は、コース別人事制度が均等法に違反しないための留意事項を公表しています(「コース別雇用管理の留意点」)。

(3) 私の体験談を少々披露しますと…(正直、四半世紀昔の話になりますので、誤りがあるかもしれません…。)
 私は、一般職として、入行しました。女性総合職は、同期で3人の狭き門。もちろん、総合職を志望して面接を受けましたが、「我が行は、女性活用の実績がある。一般職で入行しても、能力を生かせる仕事があるし、転換試験も用意されている。」等と説得されました。
 私が配属された審査部には、前年より四大卒の女性が配属されておりましたが、私の班(シマ)には女性がおらず、副参事役の男性が私の指導担当となりました。
 入行初日、財務分析の本をどさっと渡されて、「勉強してね。」といわれたのですが、翌日出社すると、何となく、雰囲気がおかしい…。
 後で聞いたのですが、一般職の女性から私の指導について、不満の声があがったとか…。そして、私の指導担当には、入行20年近くのベテラン一般職(女性)もつくことになりました。
 当時、そもそも、朝シマの机を雑巾で拭くこと、午後三時に審査部40名ほどの行員にお茶をいれること(マイ湯呑があって、覚えるのが大変)、来客があるとお茶をおだしすることなどは、女性のみの仕事でした。
 若干気になったのは、指導担当の女性が、私のために、わざわざ仕事をつくってくれること(仕事を覚えさせようという好意でしょう…)。
 実に、半年間ほど、給湯室、コピー室等、フロア中のお掃除をしてまわりました。お布巾やお湯呑みを定期的に漂白剤で消毒できて、気持ちよかったです(笑)。
 行内向けのハンドブック6000冊ほどの印刷を行内の印刷室に頼むとき、「ホッチキス留めは私たちでしましょうね」(もちろん、印刷室でホッチキス留めまででできます。)と宣言され、本店の印刷室に印刷物をとりにいき(こちらも行内便で運んでもらえます。)、台車に積んで、審査部の入っていた雑居ビルまで運ぶことに…。大手町の横断歩道で、台車から印刷物が滑り落ち、半べそをかきながら台車に積みなおしたのも、今となっては、良い思い出でしょうか…。
 思うに、審査部時代、焦りも手伝って必死に勉強したのは、かけがえのない財産になっています。
 入行後、お掃除ばかりしていたわけではなく、以前ブログで触れましたように、コンピュータの研修をうけたり、財務分析の勉強をしたり、あと、審査部と調査部の新人総合職・一般職で、様々な取引先(製鉄、自動車、食品等)を会社訪問させていただいたりもしました。そして、なんといっても、財務分析システムの開発に主担当として携わらせてもらったのは、良い経験になりました。その後、証券アナリストの資格をとれたのは、審査部時代の経験が大きく寄与しています(退職してから何年かたっていても、簿記2級は比較的容易にとれましたし…。)
 転換試験にも挑戦しました。国際部門にいた頃です。
 その際、匿名の嫌がらせの手紙をうけとったのには、本当に驚きました。文体から見て、差出主は女性だと思われます。転換試験を受けるのには、上司の推薦が必要ですが、手紙の差出主は、転換試験を受けられない事情でもあったのでしょうか。もっとも、転換試験の結果は、その差出主の杞憂に終わりました…(転換試験に落ちました…笑)。
 銀行時代、自分の思い通りにいかないことがあるということを、頭でだけでなく、心で、知りました。ついつい、やれることは一生懸命努力して、思い通りの結果にならなければ、諦める…ということが身につきました。よかったのか、悪かったのか…。就職試験の「あの日」まで戻って別の人生を歩んでみることはできないので、なんとも評価のしようがありませんが、怠け者の私のことですから、銀行時代を経ていなければ、弁護士にはなっていなかったことでしょう(司法試験の勉強をはじめたのは、銀行をやめてからですが…)。