2015年7月16日木曜日

山上の説教(山上の垂訓)より。


1. 今日は、台風の影響で、名古屋でも、時折、強い雨が降っていました。

 最近、どうも、いろいろと気忙しくて、精神的にゆとりを欠いている気がします…。いけませんね。

 今日は、聖書の話を…。
 といっても、耳から入ってきた聖書目から入ってきた聖書との違いに、大変、びっくりしたことという話です。
 以前にも、少々書きましたが(↓)、私は、特定の宗教の信者ではありません。

 http://www.hisaya-avenue.blogspot.jp/2015/02/blog-post.html
 恐れ入りますが、不快に思われそうな方は、ここから先は進まないでくださいね。

2.(1) 私が通っていたカソリック系ミッションスクールでは、毎朝の朝礼で聖書の朗読がありました。週に1日はお聖堂で行われていたと思います。その他、年間を通して、宗教的行事が結構ありまして、聖書の朗読を耳にする機会は、比較的、たくさんありました。
 他方、教育課程には、宗教の授業がとりいれられていましたし、何年生のときにはじめたのか覚えていませんが、シスターを囲んで有志で聖書を読む会をやったりもしていたので、聖書を読む機会も、勿論、ありました。
 
(2)  そんな環境で、耳から入ってきた聖書目から入ってきた聖書との違いに、大変、びっくりしたことがあるというのは、有名な山上の説教(山上の垂訓)の一部です。
 マタイ伝第7章に次のようなたとえ話がでてきます。 
 
なぜ、兄弟の目にあるちりをみながら、自分の目にある『はり』を認めないのか。自分の目には『はり』があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりをとらせてください、と言えようか。」
 
ここにでてくる『はり』について、どのような漢字を思い浮かべられるでしょうか?
 私は、耳で聞いているうちは、ず~っと、「」だと思っていました。
 ところが、実は、「」が正解なのです。
 目の中に「梁」!?
 どうやっても、入らないのでは…!?
 (針だって、滅多なことでは、目に入りませんが…。梁よりは…。梁って、古い民家だとむき出しでみることのできる、柱と柱の間にわたしてあるあの立派な構造材ですよねっ…。)

 聖書を読んでいて、自らの間違いを発見したときは、本当にびっくりしました。誤植か誤訳では?…と、思ったくらいです。新約聖書は、ギリシャ語で書かれているそうですが、英語の聖書はもっていたので、確認してみました。

But why notice the splinter in your brother’s eye without taking notice of the beam in your own eye? Or how can you say to your brother, ‘Let me extract the splinter from your eye,’ when there is a beam in your own eye
 
beamという単語がつかわれており、辞書でひくと、「梁」とか「光線」とか…。
 対するsplinterは、木片という意味があります。
 とすると、ここは、やっぱり、「梁」でしょうか…。大きい木材と、小さい木片…を用いて、たとえ話にしているのでしょうね…。
 
(3)  当時、まわりの友達に話した記憶はあるのですが、反応は、薄かったように思います…(笑)。
 
(4)  勿論、このたとえ話で、「梁」か「針」かは、さほど重要な問題ではないということは、私にもわかっております…。はい。
 何度となく、読んだはず(聞いたはず)のこのたとえ話、その前は、次のような記述となっています。
 
人をさばくな。自分がさばかれないためである。
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」

そして、たとえ話の後は、こう続きます。
 
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」
 
裁きの場に身をおくこともある弁護士になって読むと、昔とはまた違った感慨が押し寄せてきます。