2025年11月16日日曜日

信玄公旗掛松事件

1. 昨日は、宇奈月温泉再訪とともに、宇奈月温泉事件についてふれましたが、今日は、信玄公旗掛松事件についても、軽くふりかえってみたいと思います。
 どちらの大審院判決も、法学部に入学したての頃、篠塚昭次教授の「法学入門」の講座において、権利濫用のリーディングケースとして習った記憶があります。

2.事案の概要と特徴

 信玄公旗掛松事件の概要ですが、(旧国鉄中央線の)日野春停車場付近にあった武田信玄が旗を掛けたといわれる松樹が、汽車が噴出した石炭の煤煙によって枯死したため、その所有者(X)が国(Y)に対し損害賠償請求したというものです。
 公害訴訟の走りといえるでしょうか。蒸気機関車は、その走行により大量の煤煙をだしますので、沿線に家屋があると、洗濯物が汚れてしまうなどの煙害を生じさせたり、場合によっては、煙の中に火の粉がまじって火災を引き起こすことなんてことがあったんですね(現代でも、名古屋で河村たかしさんが市長の時代にあおなみ線でSL実験走行が行われましたが、「煙が気になる」というアンケート結果があったりして…)。
 なお、環境保護、公害防止の見地からみた本件の特徴としては、当事者が「私人対国」であったこと、加害行為が一種の産業活動である鉄道営業であったこと、被害が煤煙の大気汚染によるものであり、かつ、財産的被害であったこと、法的構成が不法行為に基づく損害賠償請求の形をとっていることなどがあげられます(東孝行「判批」公害環境判例百選)。 

3.信玄公旗掛松事件の上告審判決

 さて、信玄公旗掛松事件というのは、上記のとおり、戦前に国を相手に提起された損害賠償請求であるところ、大審院(大判大正833日大審院民事判決録25356頁)は、以下のように判示して、Y(国)の上告を棄却しており、なんと、原審(東京控訴院大正7726日判決)に引き続き、Y(国)が負けているのです(下線、黄色は筆者)。

「權利ノ行使ト雖モ法律ニ於テ認メラレタル適當ノ範囲内ニ於テ之ヲ爲スコトヲ要スルモノナレハ權利ヲ行使スル場合ニ於テ故意又ハ過失ニ因リ其適當ナル範圍ヲ超越シ失當ナル方法ヲ行ヒタルカ爲メ他人ノ權利ヲ侵害シタルトキハ侵害ノ程度ニ於テ不法行爲成立スルコトハ當院判例ノ認ムル所ナリ(大正五年(オ)第七百十八號大正六年一月二十二日言渡當院判決參照)然ラハ其適當ナル範圍トハ如何凡ソ社會的共同生活ヲ爲ス者ノ間ニ於テハ一人ノ行爲カ他人ニ不利益ヲ及ホスコトアルハ免ルヘカラサル所ニシテ此場合ニ於テ常ニ權利ノ侵害アルモノト爲スヘカラス其他人ハ共同生活ノ必要上之ヲ認容セサルヘカラサルナリ然レトモ其行爲カ社會觀念上被害者ニ於テ認容スヘカラサルモノト一般ニ認メラルル程度ヲ越ヘタルトキハ權利行使ノ適當ナル範圍ニアルモノト云フコトヲ得サルヲ以テ不法行爲ト爲ルモノト解スルヲ相當トス」

「本件松樹ハ鐵道沿線ニ散在スル樹木ヨリモ甚シク煤煙ノ害ヲ被ムルヘキ位置ニアリテ且ツ其害ヲ豫防スヘキ方法ナキニアラサルモノナレハ上告人カ煤煙豫防ノ方法ヲ施サスシテ煙害ノ生スルニ任セ該松樹ヲ枯死セシメタルハ其營業タル汽車運轉ノ結果ナリトハ云ヘ社會觀念上一般ニ認容スヘキモノト認メラルル範圍ヲ超越シタルモノト謂フヘク權利ノ行使ニ關スル適當ナル方法ヲ行ヒタルニアラサルモノト解スルヲ相當トス故ニ原院カ上告人ノ本件松樹ニ煙害ヲ被ラシメタルハ權利ノ行使ノ範圍ニアラスト判斷シ過失ニ因リ之ヲ爲シタルヲ以テ不法行爲成立スル旨ヲ判示シタルハ相當ナリ上告人カ沿道到ル所ニ散在スル樹木ト同一視シテ原判決ヲ攻撃スルハ原判決ニ副ハサルモノニシテ採ルニ足ラス」

4.権利濫用法理としての類型、受忍限度論

 本判決は、権利濫用法理を用いたリーディングケースとして著名ですが、上記に引用した本判決の規範定立部分をみると、権利濫用という言葉はでてきません。本判決の原判決(東京控訴院判決)が「従テ汽車運轉ノ際故意又ハ過失ニ因リ特ニ煙害豫防ノ方法ヲ施サスシテ煤煙ニ因リテ他人ノ權利ヲ侵害シタルトキハ其行爲ハ法律ニ於テ認メタル範圍内ニ於テ權利ヲ行使シタルモノト認メ難ク却テ權利ノ濫用ニシテ違法ノ行爲ナリト爲スヲ正當トス」と判示したため、Y(国)は、蒸気列車を軌道上で運転するのは権利行為で、その権利が適切で、通常の方法により行使していて、本件松樹が枯死したのなら、権利の濫用として違法な行為とはならない旨を上告理由の1つとして上告していたので、上記引用部分はこれに対し大審院が応答したものです。
 背景として、本判決以前の判例においては、権利の絶対性を重視し、権利の行使の結果として他人に損害を加えたとしても、原則として不法行為とならないとする傾向が見られたことがあるようで、本判決は、そうした理解に一定の制約を課したとされます(長野史寛「判批」民法判例百選Ⅰ総則・物件[第7版])。他方で、現在においてはもはや権利の絶対性という理解はとられておらず、本判決のような文脈で権利濫用法理を援用する必要はないともされています(長野)。
 ところで、鈴木禄彌教授は、権利濫用法理の問題として取り上げられている諸事例を3つの類型にわけていて、信玄公旗掛松事件については実は単なる不法行為に適用されている事例としています(鈴木禄彌「財産法における『権利濫用』理論の機能」法律時報3010号)。
 内田貴教授は、本判決は、「權利ノ行使ト雖モ法律ニ於テ認メラレタル適當ノ範囲内ニ於テ之ヲ爲スコトヲ要スル」と判示しており、公害事件が増える中でこの理論が明確化されたのが、いわゆる受忍限度論であるとしています(内田貴『民法Ⅱ[第3版]』(東京大学出版会・2011年))。
 受忍限度論というのは、「人間が社会生活を営んでいる以上、他人の生活に起因する侵害行為については、社会共同生活上受忍すべき限度を超えた場合に違法として評価されるとするもの」です(『新注釈民法(15)債権(8)[2])。東孝行裁判官も、「今日違法性要素として主張される受忍限度論をその判示の中に見出すことができる」としています(前掲東)。
 もっとも、長野教授は、権利行使が「適当ノ範囲内」かどうかを規準とする本判決の一般論と受忍限度論との間には、見た目以上の隔たりがあるとしています(前掲長野)。

5.違法性要件(相関関係説)、受忍限度論と要件事実

 本判決では、不法行為の成否が争点となっているところ、民法709条は「故意又ハ過失ニ因リテ他人ノ權利ヲ侵害シタル者ハ之ニ因リテ生シタル損害ヲ賠償スル責ニ任ス」と規定していました。現在の民法709条は、「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」であり、「他人ノ權利」侵害要件が、判例による緩和をへて、平成16年改正により、「他人の権利又は法律上保護される利益」侵害要件になっています。
 伝統的通説である相関関係説は、改正前の「権利の侵害」について加害行為の違法性であると捉え、その違法性の有無は、被侵害利益の種類と侵害行為の態様の相関関係によって判断するとし、判例もこれを採用していました(前掲注釈民法、竹内努裁判官執筆分)。このように、違法性を不法行為の成立要件と解すると、不法行為に基づく損害賠償請求訴訟において、原告は、請求原因事実として、違法性の評価根拠事実を主張立証する責任を負いますが、相関関係説では、どこまで詳細に評価根拠事実を主張すれば違法性を基礎づけられるかは、被侵害利益の種類によって異なるとされます(同注釈民法)。つまり、被侵害利益が物権ほど強固な利益といえない場合、たとえば、景観利益などの場合では、侵害行為について比較的大きな不法性があることが必要とされています(同注釈民法)。
 また、受忍限度論については、加害行為が受忍限度を超えていることが請求原因事実となるのか(請求原因説)、原告としては被告の行為があることを請求原因事実として主張すれば足り、被告は当該行為が原告の受忍限度内であることを抗弁事実として主張しなければならないか(抗弁説)、争いがあり得るところですが、「原告は、違法性を基礎付けるために、被告の行為がその行為の態様や社会的価値などから見て受忍限度を超えることの評価根拠事実を請求原因事実として主張する必要があろう(……)。この場合、受忍限度を超えることの評価障害事実が抗弁となる。」とされています(同注釈民法)。
 ところで
、違法性説に対しては、1970年前後より、反対説が有力化しました。とはいえ、違法性説は現在に至るまで判例に対する影響力を失ってはおらず、権利・法益が違法に侵害されたか否かによって 不法行為の成否を決しているとされます。つまり、条文上、「権利又は法律上保護される利益」が侵害される必要がありますが、判例は、この要件に、「違法に」という字句を読み込み、不法行為の成立に絞りをかけているといいます(前掲注釈民法 橋本佳幸教授執筆分)。
 なお、司法研修所の『紛争類型別の要件事実』では、不法行為に基づく損害賠償請求権の要件事実を、①権利侵害、②①についてのYの故意・過失、③損害の発生とその数額、④①と③の因果関係としていますが、加藤新太郎元裁判官ほかが書かれた『要件事実の考え方と実務』では、「『違法性』が要件となるかが問題となるが、人の身体に対する暴行、財産に対する毀損というもっとも一般的な加害行為は、それだけで行為の違法性が基礎づけられるから、要件事実の上で、あえて違法性が独立の要件となることはない。『違法性』が問題とされるのは、たとえば、騒音、日照などの生活妨害の事案である。……受忍限度を超えていることは、Xが請求原因において主張証明しなければならない。」としています。結局、注釈民法の竹内努裁判官の記述と、基本的に、同旨だと思われます。