1.8月もあと数日で終わりですね。
東京では降水継続日数が21日となったり、各地で記録的大雨が降ったり、今年の夏は雨が多かった印象です。名古屋でも、ひどい雨が降りました。
東京では降水継続日数が21日となったり、各地で記録的大雨が降ったり、今年の夏は雨が多かった印象です。名古屋でも、ひどい雨が降りました。
2.今年は、夏休みを利用して旅に出るということはなかったです。帰省したくらいでしょうか…。
でも、知財ネットの農水法務支援チームの一員として、「世界農業遺産」の原稿を書かなければならなかったので(「知財ぷりずむ」9月号に掲載予定)、近場ですが、7月末に鵜飼に行きました。本日は、その話を…。
<後記>
「知財ぷりずむ」9月号(Vol.15 No.180)の記事は、こちら(↓)
https://iplaw-net.com/doc/2017/chizaiprism_201709_4.pdf
「世界農業遺産」ってご存知でしょうか。
ユネスコの「世界遺産」とは別物でして、国際連合食料農業機関(FAO)がはじめた仕組みで、日本では、8地域が指定されています。「世界遺産」よりは馴染みが薄いかもしれませんが、農水省のパンフレットでは、
社会や環境に適応しながら何世代にもわたり形づくられてきた伝統的な農林水産業と、それに関わって育まれた文化、ランドスケープ、生物多様性などが一体となった世界的に重要な農林水産業システム
と説明されています。
ところで、上記原稿では、みなべ・田辺の梅システム(和歌山県)をとりあげているのですが、名古屋市から一番近い世界農業遺産は、「清流長良川の鮎」(岐阜県)なので、鵜飼の写真を載せたくて、日帰りで、長良川鵜飼をみにいった…という次第です。
鵜飼は、ご存知の通り、鵜呑みする鵜を使って鮎を獲る伝統漁法ですが、なんと、約1300年前には、日本で鵜飼が行われていたそうで、『隋書』の「東夷伝倭国条」や、『古事記』や『日本書紀』には、鵜飼に関する描写があるそうです。
現在、全国12か所において鵜飼が行われていますが、その中でも、長良川の鵜飼は、鵜匠が宮内庁式部職(世襲。しかも、男性のみ。長良川では6家。)であることで有名ですよね。長良川鵜飼ミュージアムを訪れたところ、702年(大宝2年)の美濃国の戸籍に鵜飼を職業としていた人の記録が残っていたことや、岐阜城を居城とした織田信長が武田信玄の使者を鵜飼でもてなしたとか、1615年徳川家康が大坂夏の陣の帰途、秀忠と鵜飼を見たとか、戦国武将との関わりも紹介されています。ちにみに、今年は、信長公が岐阜と命名してから450年目にあたるそうです。
江戸時代には、尾張藩の保護を受け、やがて、観光化もされたとのこと。松尾芭蕉は、「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな」と詠んでいます。
1878年(明治11年)、明治天皇の岐阜ご巡行の際、岩倉具視らから鵜鮎が御膳に献上され、1890年(明治23年)、長良川の3か所が御猟場に定められ、鵜匠は宮内省主猟局に属するようになりました。
時代がくだって、1936年(昭和11年)には、チャールズチャップリンが鵜飼をみて感激し、戦後再訪したといいますから、驚きです。
2015年(平成27年)には、「長良川の鵜飼漁の技術」が国の重要無形民俗文化財に指定されています。岐阜市では、ユネスコ無形文化遺産のリスト入りも目指しているみたいですね。ユネスコ無形文化遺産については、こちら↓。https://iplaw-net.com/doc/2015/chizaiprism_201508_2.pdf
長良川鵜飼ミュージアムを訪問後、いよいよ、長良川鵜飼観覧船に乗船。船はすぐに川岸に停泊し、まずは、予約しておいたお弁当をいただきます。日がとっぷりとくれた頃、花火を合図に、川沿いのホテルや旅館の電灯が消されます。鵜舟の順番はクジで決めるとのこと。鵜舟一艘に観覧船が並走する「狩り下り」、そして、「総がらみ」でクライマックスをむかえます。総がらみをおえた鵜舟は、観覧船と観覧船の間に入って、漁の片づけである「あがり」を行います。
長良川鵜飼を拝見するのは、3度目だったと思いますが、いつもながら、幽玄な世界に浸ることができました。
でも、知財ネットの農水法務支援チームの一員として、「世界農業遺産」の原稿を書かなければならなかったので(「知財ぷりずむ」9月号に掲載予定)、近場ですが、7月末に鵜飼に行きました。本日は、その話を…。
<後記>
「知財ぷりずむ」9月号(Vol.15 No.180)の記事は、こちら(↓)
https://iplaw-net.com/doc/2017/chizaiprism_201709_4.pdf
「世界農業遺産」ってご存知でしょうか。
ユネスコの「世界遺産」とは別物でして、国際連合食料農業機関(FAO)がはじめた仕組みで、日本では、8地域が指定されています。「世界遺産」よりは馴染みが薄いかもしれませんが、農水省のパンフレットでは、
社会や環境に適応しながら何世代にもわたり形づくられてきた伝統的な農林水産業と、それに関わって育まれた文化、ランドスケープ、生物多様性などが一体となった世界的に重要な農林水産業システム
と説明されています。
ところで、上記原稿では、みなべ・田辺の梅システム(和歌山県)をとりあげているのですが、名古屋市から一番近い世界農業遺産は、「清流長良川の鮎」(岐阜県)なので、鵜飼の写真を載せたくて、日帰りで、長良川鵜飼をみにいった…という次第です。
鵜飼は、ご存知の通り、鵜呑みする鵜を使って鮎を獲る伝統漁法ですが、なんと、約1300年前には、日本で鵜飼が行われていたそうで、『隋書』の「東夷伝倭国条」や、『古事記』や『日本書紀』には、鵜飼に関する描写があるそうです。
現在、全国12か所において鵜飼が行われていますが、その中でも、長良川の鵜飼は、鵜匠が宮内庁式部職(世襲。しかも、男性のみ。長良川では6家。)であることで有名ですよね。長良川鵜飼ミュージアムを訪れたところ、702年(大宝2年)の美濃国の戸籍に鵜飼を職業としていた人の記録が残っていたことや、岐阜城を居城とした織田信長が武田信玄の使者を鵜飼でもてなしたとか、1615年徳川家康が大坂夏の陣の帰途、秀忠と鵜飼を見たとか、戦国武将との関わりも紹介されています。ちにみに、今年は、信長公が岐阜と命名してから450年目にあたるそうです。
江戸時代には、尾張藩の保護を受け、やがて、観光化もされたとのこと。松尾芭蕉は、「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな」と詠んでいます。
1878年(明治11年)、明治天皇の岐阜ご巡行の際、岩倉具視らから鵜鮎が御膳に献上され、1890年(明治23年)、長良川の3か所が御猟場に定められ、鵜匠は宮内省主猟局に属するようになりました。
時代がくだって、1936年(昭和11年)には、チャールズチャップリンが鵜飼をみて感激し、戦後再訪したといいますから、驚きです。
2015年(平成27年)には、「長良川の鵜飼漁の技術」が国の重要無形民俗文化財に指定されています。岐阜市では、ユネスコ無形文化遺産のリスト入りも目指しているみたいですね。ユネスコ無形文化遺産については、こちら↓。https://iplaw-net.com/doc/2015/chizaiprism_201508_2.pdf
長良川鵜飼ミュージアムを訪問後、いよいよ、長良川鵜飼観覧船に乗船。船はすぐに川岸に停泊し、まずは、予約しておいたお弁当をいただきます。日がとっぷりとくれた頃、花火を合図に、川沿いのホテルや旅館の電灯が消されます。鵜舟の順番はクジで決めるとのこと。鵜舟一艘に観覧船が並走する「狩り下り」、そして、「総がらみ」でクライマックスをむかえます。総がらみをおえた鵜舟は、観覧船と観覧船の間に入って、漁の片づけである「あがり」を行います。
長良川鵜飼を拝見するのは、3度目だったと思いますが、いつもながら、幽玄な世界に浸ることができました。
長良川うかいミュージアム Nagaragawa Ukai Museum |
河戸(こうど。鵜舟を係留する川岸。)。 なんと鵜舟はモーター付きなんですね。 川向うにみえるのが金華山。 頂上に岐阜城がみえます。 |
鵜飼開始の合図の花火。 観覧船は、船頭さんが棹と櫂で操ります。 解説もしてくれます。 |
篝火をたいた鵜舟にのる 鵜匠と中乗りさん。 |
「あがり」の 白いお髭の鵜匠さんと鵜。 |