2017年1月29日日曜日

千葉家裁松戸支部の控訴審判決(東京高判平成29年1月26日)The Tokyo High Court judgement dated January 26, 2017、桶狭間周辺の史跡巡り The historical spots around Okehazama


1. 離婚裁判において親権が争われた松戸事件の控訴審判決(東京高判平成29126日)
The Tokyo High Court judgement dated January 26, 2017

 昨年、ブログでふれた千葉家裁松戸支部平成
28329判決の控訴審判決(東京高判平成29126日)がでましたね。
 控訴審の判決文はまだ読んでいませんが、報道によると、第一審判決を変更し、母親を親権者としたようです。
 第一審判決を読むと、父親は、仕事一辺倒の生活を改め、家事や育児の分担を大幅に増やした矢先、夕方長女を保育所に迎えに行ったところ、長女が保育園におらず、帰宅後、母親が長女を連れて出たことに気付いたとのこと。このように母親は父親の了解を得ることなく子を連れだし、その後(第一審判決時には)約510か月間、父親との面会交流に合計で6回程度しか応じていませんでした。その上で、第一審は、母親は面会交流を月一回程度の頻度とすることを希望しているのに対し、父親は、年間100日に及ぶ面会交流の計画を提示していることなども総合考慮して、父親を親権者と指定するのが相当であると判示しました。このため、同判決は、「寛容性の原則」を採用したとの評価があります。
 これに対し、控訴審は、「面会は親権者を決める唯一の判断基準ではない。子供の意思や父母との関係など、他の事情よりも重要性が高いとはいえない」、「別居前から主に母が…監護し、安定した生活をしている。」、子も母親と一緒に暮らす意向がある等とした上で、子の利益を最も優先すれば、母親を親権者とするのが相当であると判断したようです。このように、報道に接したところでは、控訴審は、従来通りの「監護の継続性の原則」を採用したものと思われます。
 父親は上告するとのことですが…。
 何が「子の最善の利益」か…は、本当に難しい問題です。


 
    The Tokyo High Court, on January 26, 2017, reversed the judgment of the Matsudo branch of the Chiba District Court dated March 29, 2016.
The Matsudo judgment was regarded as the one in which the friendly parent rule was adopted.  I
n its decision i
t appointed a husband (a left behind father) as a parental authority of a child, considering that he submitted a parenting plan providing 100 days visitation chance to his wife, while she offered once a month visitation chance to him.
However, the Tokyo High Court decided to
appoint the wife as the parental authority of the child, considering that she had been the primary care-giver of the child and the child was spending a stable life.
It has always been a really difficult question “What is the child’s best interest?”

 2.桶狭間周辺の史跡巡り
The historical spots around Okehazama

 
 (1) 桶狭間周辺の史跡をまわってみました。
 まずは、ネットで調べた「酒楽亭 空庵」で腹ごしらえ(笑)。ラーメンにのっている鴨がレアでおいしかったです。


「酒楽亭 空庵」の
鴨はちラーメン
Kamohachi Ramen
(Ramen noodles with canard viande)
at Shurakutei-Kuan

 

(2)  次に、桶狭間古戦場公園(田楽坪)にいってみました。
 桶狭間古戦場公園は、かの桶狭間の戦い(1560)の中心地で、今川義元公の最期の地だといいます。
 公園内には、「今川義元公馬繋ぎの『ねずの木』」や「駿公墓碣」(すんこうぼけつ)があります。公園内の掲示板によれば、「ねずの木」は、着陣した今川義元公が田楽坪の泉で水を飲むために馬をつないだ木であるとして「ねず塚」として残され、なんと、この木に触れると熱病にかかるとの言い伝えがあるとか(怖)。また、「墓碣」の方は、「ねず塚」に埋められているのが、昭和28に偶然発見されたそうで、当時の村人が敗軍の将を弔うためにひっそり埋めて供養したのではないかとのこと。

  ここで、ボランティアガイドさんが声をかけてくださり、「リアル宝探し」を紹介されたので、これに挑戦しつつ、瀬名氏俊陣地跡長福寺桶狭間神明社戦評の松高根山とまわりました。

桶狭間古戦場公園内の
織田信長公と今川義元公の銅像
The statue of Nobunaga Oda (left)
 and Yoshimoto Imagawa (right)
in Okehazama Kosenjo Park
桶狭間古戦場公園内の
桶狭間の戦い案内
A map of a histric battlefiled of Okehazama


長福寺の境内。
池の脇では、今でも泉が湧き出ています。
ボランティアガイドさんは、
「桶狭間」の地名の由来は、
桶がくるくる廻るくらい
泉が勢いよく湧き出ていたからだと
おっしゃっていました。
(地名の
由来は諸説あるようです。)
A pond in Chofukuji Temple
recieves water from a spring.


桶狭間神明社。
桶狭間の戦いでは、
先発の瀬名氏俊が
武運を祈願したといいます。
Okehazama Shinmeisha Shrine
高根山にある有松神社。
高根山は標高54.5メートルで
付近では一番高いといいます。
桶狭間の戦いでは
松井宗信隊が着陣し
善照寺砦、中島砦方面の織田軍の動静を
監視したそうです。
(「桶狭間史跡マップ」より)
Takaneyama (Takane hill)



高根山から名古屋駅方面を望む
The center of the Nagoya city (around Nagoya Station)
looking from the top of Takaneyama
 
 

(3)  桶狭間の戦いにおいて、織田信長は、十倍以上の戦力を有する今川義元を破るため、当時の常識を破り、奇襲をかけて、大将の首をとった…、とてもドラマティックゆえ、数々の小説やドラマで描かれていていますよね。
 当日の信長のスケジュールは…。午前4時頃、清州城で鷲津砦・丸根砦が今川軍の攻撃を受けたとの報告を聞き、「敦盛」を舞ってから出陣、午前8時頃熱田神宮で戦勝を祈願、午前10時頃に善照寺砦に着き、本陣ここにありと見せかけておいて、雷雨の中を今川義元の本陣近くの釜ケ谷に進み、雨がやむや、今川軍に突撃したとのこと(公園内掲示板「信長公記」より。)。

  交通機関が発達した現代からみると、馬での移動にもかかわらず、すごい機動力があるように感じますが、当時としては、どうだったのでしょうか。

         
以前訪れた熱田神宮の信長塀。
桶狭間の戦いでの戦勝を祈願した織田信長が
大勝の御礼として奉納したとされます。
"Nobunaga Bei" in Atsuta Shrine
I visited the other day.
It was donated by Nobunaga Oda
as a token of the gratitude
for his victory of
Okehazama battle.


(4)  その後、イオン大高で買い物をすませ、帰途、大高城跡にも寄ってみました。
 今川義元は、桶狭間の戦いの際、前日に沓掛城に入り、大高城に向かう途中に休息していたところを、織田信長の襲撃をうけたといいます(前掲掲示板)。

  大高城は、東西約160メートル、南北32メートル、四方を二重の堀で巡らしていたといいます(大高城跡掲示板)。今川義元は大高城を重視しており、松平元康(家康)に兵糧輸送を命じこれに成功したことから、「大高の兵糧入れ」でも有名です。桶狭間の戦いの後は、一旦廃城となりましたが、大阪城落城の後、尾張藩の家老、志水忠宗がこの地に一万石を領し、城跡に館を設けて明治維新まで代々続いたそうです(山田柾之『愛知の城』より。)
                  
大高城跡。史跡に指定され
公園になっています。
a site of "Odaka Castle"
        
本丸跡?
左側の高くなっているところには
城山八幡社があります。
a site of "Honmaru"  ?

(5)  桶狭間周辺は、史跡が密集しており、また、古い民家を含め住宅密集地となっているにもかかわらず、結構、小高い丘が、ポツポツとあり、往時の戦いをしのびやすく、とても楽しい時間が過ごせました。

イオン大高の駐車場からの眺め
View from Aeon Mall Odaka

 
大高城跡近辺の街並み
a histrical streetscape
near the site of Odaka Castle

          I visited the historical spots around the Okehazama hill (allias "Dengakutsubo") where Yoshimoto Imagawa, the lord of Suruga, Totoumi, and Mikawa, was killed at the battle of Okehazama in 1560.  The battle was one of the most important events in the history of Japan.  Nobunaga Oda, the lord of Owari defeted Yoshimoto Imagawa whose army had ten times more soldiers than Oda's army.

2017年1月20日金曜日

大学院の思い出


1.  今年初めてのブログ更新になります。
 正直なところ、昨年末から、修論指導で精神的ゆとりを欠いていました。
 かつて修士論文を自分で書くのも大変なことでしたが、学生さんの修士論文作成を指導するのは、より大変なことであると実感しました。まだ、審査がすんでおりませんので、枕を高くして眠ることはできません(汗)


2.  もう20年ほど前になりましょうか、私が通っていたのは、筑波大学大学院の経営政策科学研究科企業法学専攻というコースでした。
 このコースは、東京キャンパス(文京区)で行われ、丸ノ内線茗荷谷駅が最寄駅となるので、当時勤めていた銀行から地下鉄1本で通うことができました。
 修士論文(国際私法)は、今、読み返すと、頭を抱えてしまいます…。親身に指導してくださった三井哲夫先生に対しては、感謝の念に堪えません(すっかりご無沙汰しておりますが…)。
 

3.  大学院では、2年次は修士論文の作成に専念しておりましたが、1年次は、授業やゼミも受講していました。
 正直に申しますと、大学時代は、法律の勉強になじめなかったのですが、社会人になってから法律の勉強をすると、こんなにも面白く感じるのかというくらい、大学院の授業やゼミは、どれも興味深いものでした。あのとき大学院の門をたたいていなかったら、現在、弁護士になっていなかったと断言できます。
 そんな興味深い授業やゼミの中で、最も印象に残っているのは、故竹内昭夫東京大学名誉教授の会社法です。
 だいぶ昔のことなので、記憶違いがあるかもしれませんが…。
 竹内先生は、当時、既に健康を害されており、何らかの管をつけて、車いすに乗り、ご家族が付き添われ、授業にいらっしゃっておられ、弥永真生教授がアシスタントとしてついていらっしゃいました。
 授業はソクラテスメソッドでおこなわれると宣言され、事前に、ケースが配布され、予習は必須でした。
 竹内先生はお声をだすのも大変そうな状態なので、授業の進行は弥永先生がなさっていました。でも、指名された学生が、二人、三人…と満足な回答をできないと、竹内先生の雷が落ちます。私には、まるで、命を削って、生徒を叱っていらっしゃるようにみえました。鬼気迫ると表現したくなるほどです。ストレートにおっしゃったわけではありませんが、「もっと、研究がしたい、でも、健康がそれを許さない、君たちは健康ではないか、なぜ、予習すらしてこないのか…」、というような思いがその叱咤の裏にはあるのではないかと、勝手に推察しておりました。
 それから何年も経ち、租税法にかかわるようになってから、金子先生と竹内先生のみなし配当に係る論争を後追いしました。
 竹内先生の書かれた「利益積立金の資本組入れとみなし配当課税の当否-金子説批判-」(上)(下)(商事法務、125843-、125930-)には、生前の竹内先生の思い出も相まって、胸をうたれました。その最後は、以下のようにむすばれています。
「みなし配当課税の制度は廃止すべきである。それとともに譲渡所得課税の制度を改正する必要があるのなら、もちろんそれも急ぐべきである。ただその改革が実現するまで、みなし配当の制度も必要であるといわれても(…)、それは得心できない。…略…
 それでは困る。理由を示さずに拒否されたのでは批判・検討の手掛かりもない。私が税法について知る所乏しいにも拘らず、敢えて税法の専門家の論文の批判・検討を試みたのは、これを手掛かりに議論を深めようと考えたからである。商法と税法の『ねじれ現象』を放置することはできない。もちろん、再批判によって骨の髄まで切り下げられるのは覚悟の上。租税摩擦で外国から責め立てられてもこれなら大丈夫と安心できるような理論を示してもらえれば、余計な口出しをした非礼を詫びて退散するのみである。」


I could not update my blog these days.  It was partly because I was busy supervising master theses.
I think it is more difficult to supervise a master thesis than to write.

It was about twenty years ago when I was a graduate student at University of Tsukuba.  My measure was a private international law, and my supervisor was Professor Tetsuo Mitsui, to whom I am more grateful than I can say.
Among lectures, I found “Corporate Law” by Professor Akio Takeuchi most impressive
.  The lecture was through Socratic method.  As Professor Takeuchi impaired his health, Professor Masao Yanaga assisted his lecture. It seemed difficult for Professor Takeuchi to let out his voice, but he scolded the students so strictly if they didn’t prepared enough.
Professor Takeuchi was a professor emeritus at the University of Tokyo, and well known by the dispute with Professor Hiroshi Kaneko regarding “Deemed Dividends”  (Minashi Haitou”).