2016年5月30日月曜日

中日文楽 (“Chunichi Bunraku”)、萩尾望都さんの「春の夢」(“Haru No Yume” by Ms. Hagio Moto)


1.中日文楽

 週末、中日文楽を鑑賞する機会に恵まれました。
 演目は、「寿式三番叟」と「仮名手本忠臣蔵」。
 「寿式三番叟」では、千載、翁、三番叟、それぞれの舞が披露されるのですが、三番叟は、鈴がつかわれたりもして、とても賑やかで、楽しめました(ときには、ユーモラスで、会場から笑いが漏れました。)。
 人形条瑠偉三大傑作の一つとされる「仮名手本忠臣蔵」については、十一段のうち、上演されたのは、五段目「二つ玉の段」と六段目「身売り・早野勘平腹切りの段」。これでもかと、勘平・おかるとその家族を悲劇が襲うストーリー展開で、人形太夫(床本の字幕あり)、三味線三業一体となった総合芸術を堪能できました。  
 文楽(人形浄瑠璃)は、大阪で生まれ育った、日本を代表する伝統芸能の一つで、人形を遣う「人形遣い」、物語を語る「太夫」、楽器を演奏する「三味線ひき」の三業からなります。その保護については、文化財保護法により、昭和30年に人形浄瑠璃文楽」が重要無形文化財」として「総合認定」されているほか、「人形浄瑠璃文楽太夫」「人形浄瑠璃文楽人形」「人形浄瑠璃文楽三味線」が「各個認定」を受けており、その保持者(いわゆる「人間国宝」)は、現在、それぞれ2名ずつ(計6名)おられます。
 ちなみに、「無形文化財」とは、「演劇、音楽、工芸技術その他の無形の文化的所産で我が国にとつて歴史上又は芸術上価値の高いもの」をいい(文化財保護法第212号)、文部科学大臣は、無形文化財のうち重要なものを「重要無形文化財」に指定することができます(同法711項)。その指定にあたっては、当該重要無形文化財の保持者又は保持団体を認定しなければならないとされ(同法同条2項)、「各個認定」、「総合認定」、「保持団体認定」の3方式がとられています(文化庁のHP)。
 また、文楽は、2008年に、ユネスコ無形文化遺産(Intangible Cultural Heritage代表一覧表記載されています(2003年にユネスコから「人類の口承及び無形遺産に関する傑作」として宣言されていました)。「無形文化遺産については、こちらに、少々ですが触れていますので、よかったら、ご覧くださいませ。

I went to the Ningyo Johruri puppet theater (“Chunichi Bunraku”), on the weekend. The Ningyo Johruri puppet, "Bunraku", is a blend of sung narrative, instrumental accompaniment and puppet drama.  I enjoyed two programs, which are “Kotobuki Shikisanbansou” and "Kanadehon Chushingura".
"Bunraku" was designated as the Important Intangible Cultural Property under the Japan's Cultural Properties Protection Law.  Now, two Ningyotsukai (puppeteers), two Tayu (chanters/narrators), and two Shamisen (the three-stringed spike lute) musicians have been designated as Living National Treasure (six in total) .
In 2008, Bunraku was Inscribed on the UNESCO's Representative List of the Intangible Cultural Heritage of Humanity (originally proclaimed in 2003) as well.


  
中日劇場
Chunich Theater
夜の演目「本朝廿四孝」の八重垣姫
a bunraku puppet, Yaegaki-Hime (Princess)
from Honcho Nijushiko
大阪在住の祖母からもらった扇子。
「祝竹本南都大夫襲名」等と読めますが…。
後記:もしくは、「南部大夫」かもしれません。)
a gifted fan on the ocasion of celebration
for the succession of the stage name,
"Takemoto Nantotayu"
or "Takemoto Nambutayu"
   
2.萩尾望都さん「春の夢」

 萩尾望都さんが、「ポーの一族」の40年ぶりの続編「春の夢」を発表されるというので、週末、買い求めました(ネットでは売り切れていたため、書店で運よく入手)。
 以前にも書いたことがありますが、小学生の頃、我が家は漫画禁止で、その反動か、中学生になってから、随分と買って読みました。
 その中でも、最も、傾倒していたのは、萩尾望都さんの作品です。中学生の頃、初めて購入したのは、「トーマの心臓」。初対面の印象は、あまりよいものではありませんでした。東急プラザに入っていた紀伊国屋書店で初めて手に取りパラパラとページをくったとき(昔は、時間潰しに本屋さんでよく立ち読みしました…。)、何というか気持ちがザラザラと嫌な感じがして、途中で本棚に戻し、サクサク帰宅しようと本屋さんをでて階段をおりはじめたのですが、なぜか引き返して、棚にあった12巻を購入。翌日、近所の本屋さんに続きを買い求めに行ったのをよく覚えています。
 多感な時期でしたし、物語の設定と少しかぶるカソリック系のミッションスクール(女子高)に通っていたので、色々と考えさせられるところがあったのです。その後、何度も何度も読み直し、ものすごく影響を受けました。自主的に聖書を学んでいたシスターに対し、「なぜイエズス様は、ユダの裏切りを知っていたのに行かせたのか―”いっておまえのすべきことをせよ”と…」というテーマをしつこく問いかけ、大学生になると、ドイツ語を第一外国語として選択し、遂には、ドイツに物語ゆかりの地を訪ねたりして…(笑)。しかし、大人になって読み返すと、ユーリの苦しみを全くといってよいほど理解していなかったことに気づき、びっくり…。中学生は中学生の読み方があるからいいのだけれど…。
 「ポーの一族」の久しぶりの続編。青春時代の気恥ずかしい思い出が勝手によみがえるときもありますが、また、書いてくださるのが、とても、とても、嬉しいです。

On the weekend, I bought the magazine, printing of “Haru No Yume” by Ms. Hagio Moto, which is the latest work in the " Poe no Ichizoku " series, and the sequel to former work in 40 years.
I used to read many works of Ms. Moto Hagio at the age of a junior high school and was affected very much, especially by "Thomas no Shinzo".
  

「春の夢」
"Haru no Yume" from "Flowers"

    
「コブレンツでこの車両切り替えたらしいな。」
KOBLENZ.
そのほか、ユーリの実家Wiesbadenや
エーリクの実家Köln
ユーリの神学校Bonn! Bonn! Bonn!
そして、オスカーが夏休みにエーリクをたずねた
ボーデン湖畔Bodensee…

レーム駅はみつからなくて…。
「下ればハイデルベルグ
上ればカールスルーエ」をヒントに
ライン河畔を捜しました(苦笑)
Der Rhein


   


2016年5月23日月曜日

名古屋大学で行われた“2016 Fintech Law Asia” & 名古屋城の清州櫓、那古野城跡、本丸御殿等を訪ねて(The Northwest Corner Turret, the Hommaru Palace, etc. of the Nagoya Castle)


1. 名古屋経済大学の法学研究科(大学院)で、今年4月から前期のみ、1コマ、「租税法基礎研究」を担当することになったのですが、その準備に精神的ゆとりを失いつつある今日この頃…(汗)。
 ブログの更新までなかなかままなりません(言い訳です…)。

2. 先月末になってしまいますが、名古屋大学でおこなわれた「2016 Fintech Law Asia」でケンブリッジ大学のロバート・ワードロップ氏の基調講演”The Asia-Pacific Alternative Finance Benchmarking Report-Harnessing Potential”やパネルディスカッション”The Crisis or Rise of Blockchain?”を聴く機会に恵まれました。
 そもそも、Alternative Financeとは何か?伝統的な銀行や資本市場からの資金調達にかわるもの…一般的にIT(情報技術)が不可欠であり、仮想通貨digital currencyやクラウドファンディングCrowd Fundingがこれにあたるのでしょう…。
 ワードロップ氏の調査では、アジア太平洋地域では、中国がダントツに多いようですね。
 日本では、現状、未だ活況を呈しているとは言い難く、法規制も未整備でしたが、金融庁は、今年3月、「情報通信技術の進展等の環境変化に対応するための銀行法等の一部を改正する法律案」を国会に提出ました。同法案には、仮想通貨と法定通貨の交換業者への登録制度導入等、仮想通貨に係る法制度の整備が含まれています。

I participated in the conference “2016 Fintech Law Asia”, which was held at Nagoya University at the end of April.  Mr. Robert Wardrop, Executive Director of Cambridge Centre for Alternative Finance made a keynote speech on “The Asia-Pacific Alternative Finance Benchmarking Report-Harnessing Potential”.  Alternative Finance is the financial instruments and channels emerging outside of the traditional banking or capital market system.
Alternative Finance in Japan is growing rather slowly.
This March, an amendment bill to the Banking Act of Japan was submitted to the Cabinet.  Under the amendment bill, a registration system for digital currency exchangers is to be introduced.

 

3.名古屋城の西北隅櫓(清洲櫓)、那古屋城跡、本丸御殿等を訪ねて

(1)  ゴールデンウイークには、特別公開されていた名古屋城の西北隅櫓をみにいってきました。
 西北隅櫓は、名古屋城の天守閣や御殿が完成した数年後の元和5年(1619年)頃に建てられた、外観3重、内部3階の櫓(矢倉)です。清須城の遺構が利用されたと考えられることから、「清洲櫓」ともよばれています。確かに、柱などに、古材を転用したと思われる痕跡がありました。
 西北隅櫓がある辺りは、御深井丸(おふけまる)といいます。自転車でお城周辺を走るとよくわかりますが、名古屋城の辺りは名古屋台地(以前ブログで触れました。)の北端となっていて、名古屋城から北に向かって下っています。なので、西北隅櫓がある辺りは、天守閣のある辺りよりも低地となっており、「ふけ」、すなわち、湿地だったようです。

    
西北隅櫓"清洲櫓”(重要文化財)
The Northwest Corner Turret
"Kiyosu Turret"

(Important Cultural Property)

    
櫓は平時には武器などの倉庫として使われ、
有事には攻撃のための陣地となります。
手前の柱には、転用の跡がみられます。
These kind of turrets were used
as a storage area for weapons
and sereved as an encampment
in an emergency.

石落とし
A stone-drop window (Ishiotoshi)
     
西北隅櫓から天守閣をのぞむ
The Donjon looking from
the window of the Northwest Corner Turret

以前、キャッスルホテルより撮影した西北隅櫓
The Northwest Corner Turret
I photographed from the Westin Nagoya Castle the ohter day.
(2) 名古屋城は、3回目ですが、裁判所の近くにありますので、城外からは、よ~く、よ~く、みています。1回目は小学生の頃、2回目は愛知万博の頃で、金鯱が地上に降りていて手で触れました(笑)。
 今回改めて思いましたが、皇居はともかく、名古屋城って、他のお城に比べて、やっぱり、大きいです。
 天守閣の石垣も立派!!仕方ないのだろうけど、排水管等は目立ちますね…。
 天守閣(5層、5階+地下1階)は、戦前、国宝に指定されていましたが、残念なことに、戦時中に被災し、1959年に鉄筋コンクリート造で再建されました。再建された天守については、耐震上の問題等により、河村市長が木造で建て直すとの案を公表しています。楽しみです!(個人的には、こういう文化財にも税金を利用してくれると嬉しいです。)
 現在、原則として旧来の材料・工法により再建中の本丸御殿(こちらもかつて国宝に指定されていましたが、戦時中に焼失しました。)の一部(表書院と玄関)が公開されていますが、長い年月を経て、伊賀上野城のように味わいがでてくるのかなあと思うと、楽しみです。

   
天守閣
The Tenshu (the Donjon)
       
小学生の頃訪れた際の名古屋城天守閣
The Donjon photographed
when I visited at the age of a primary schoolchild 
本丸御殿の玄関
The entrance of the Hommmaru Palace

本丸御殿の表書院。藩主と来客や家臣との公的な謁見に用いられた。
The omoteshoin, the main hall was used for official audiences.
   
左から右へ、天守閣、西南隅櫓(重文)、表二之門(重文)
The Donjon, The Southwest Conrner Turret, Front Second Gate
(from the left to the right)

(3) 名古屋城内の二の丸庭園には、「那古野城跡」があります。
 つまり、近世名古屋城は、戦国期の那古野城(一名「柳之丸」)が基になっているのです。
 那古野城は、戦国時代、名古屋台地西北端に築かれた今川氏の城でした。そして、織田信長の父、織田信秀が、那古野城主であった今川氏豊(義元の弟)より、泊りがけで連歌会によばれた際、夜に騒ぎを起こして城外に潜ませた兵を乱入させ、氏豊より簒奪したとされます。『名城と合戦の日本史』(小和田哲夫著)では、この簒奪について、以前の通説であった1532年(天文元年)よりも遅い1538年(天文7年)に生じたとする新井喜久夫氏の説を紹介し、支持されています。
 ということで、1534年(天文3年生)生まれの織田信長は、勝幡城(以前ブログでふれました)で誕生した後、1538年(天文7年)信秀の那古野城簒奪により那古野城に移り、1542年(天文11年)信秀が古渡城(こちらも以前ブログで触れました)を築いて移り住んでからは、幼い信長が那古野城主になって、幼年時代、少年時代を過ごしたということになるようです。

  
那古野城跡
The site of Nagoya Castle Ruins
 

(4) 信長公の居城を総括すると、勝幡城⇒那古野城⇒清須城⇒小牧山城⇒岐阜城⇒安土城となります。最近、お城の話題が続いて恐縮ですが、清州城、小牧山城、岐阜城についても、また、後日触れてみたいなと思います。 

I visited the Nagoya Castle during the Golden Week Holidays to see the Northwest Corner Turret (Seihoku Sumiyagura) which was open to the public only during the Holidays.  The Turret is a three-story building with a roof at each level, and it is said that many materials taken from the Kiyosu Castle were used in building the Turret in around 1619, because Ieyasu Tokugawa ordered, in 1610, the construction of the Nagoya Castle and the abandon of the Kiyosu Castle.

In the age of the provincial wars ahead of Edo era, the Imagawa clan built a castle near the site of the later Ninomaru Palace, which was demolished after the Meiji Restoration.  The recent researchers strongly suggest that Oda Nobuhide seized it from Imagawa Ujitoyo in 1538, and moved in from the Shobata Castle with his eldest son, Nobunaga Oda, the legendary warload of Owari (the western part of Aichi)..

The Hommaru Palace was designated as national treasure in 1930, but burned down during WWII.  The palace is under restoration based on respect for the remaining historical evidence, and only an Omote Shoin (a Main Hall) is now open to the public.

The Tenshu (the Donjon) with six-stories and five external levels, which was also designated as national treasure in 1930,  burned down during WWII, and so, the present Donjon was rebuilt in reinforced concrete in 1959.  On the occasion of Aichi Expo 2005, the golden "Shachi" (an imaginary animal which is said to be able to summon water and have come to be used as charms for preventing fire) was taken down from the roof of the Nagoya Castle and displayed within the grounds of the Castle (I could touch it at that time!).  Nagoya Mayor Takashi Kawamura announced a plan of reconstruction of the Donjon in wood, just as in the original structure, which I really appreciate.